2022年9月25日日曜日

国葬は「民主主義と相容れない」 宮間純一教授と歴史から国葬を考える

 AERA dot.. が、「安倍元首相の国葬は『民主主義と相容れない』 宮間純一教授と歴史から国葬を考える」という記事を出しました。以下に紹介します。
 宮間氏は日本近代史を専門とする中央大教授で『国葬の成立』を著しています。
 国葬が法律上明文化されたのは1926(大正15)年公布された「国葬令」(戦後廃止)で、そこでは「『功臣』に天皇から国葬を賜る」とされています。1878(明治11)年5月大久保利通の葬儀をはじめとする事実上の国葬は、一貫して時の政府が自らの政治基盤を強化するために行われてきました。
 宮間氏は、「国葬は国家が特定の人間の人生を特別視し、批判意見・思想を抑圧しうる制度で、戦後日本の民主主義とは相容れないもの」とし、最低限「国民が同意して行われなければいけない。国民の同意をつくる場は国民が選挙で選んだ代表者で構成される国会である」と述べています。そして安倍氏の国葬は戦後日本の民主主義とは相容れないもので、民主主義を壊す一つのステップになると懸念しています。
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    (8月17日)国葬とはそもそも何かその問題点は 宮間純一・中央大教授に聞く
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安倍元首相の国葬は「民主主義と相容れない」 宮間純一教授と歴史から国葬を考える
                      宮間純一 AERA dot. 2022/09/23
                       AERA 2022年9月26日号
 安倍晋三元首相の「国葬」が、9月27日に開催される。そもそも国葬はどの役割を担ってきたのか、そして今回の国葬の何が問題なのか、・中央大学教授と歴史から考える。
 AERA 2022年9月26日号の記事を紹介する。
               みやま・じゅんいち
             1982年生まれ。中央大学教授。専門は日本近代史。宮内庁
                          宮内公文書館研究職を経て現職。著書に『国葬の成立』
                *  *  *
 日本における国葬の原型は「維新の三傑」の一人、大久保利通の葬儀にさかのぼる。1878(明治11)年5月、大久保は不平士族らに暗殺された。当時国葬の制度はなかったが、死から3日後、大久保の葬儀は盛大に執り行われた。
 「当時、明治政府は盤石ではありませんでした。そこで、大久保の後継者として内務卿に就いた伊藤博文たちは、天皇の名の下に国家を挙げ哀悼することで、政府に逆らうことは天皇の意思に背くことだということを明確にしようとしたのです」
 歴史学者で国葬の歴史を研究する、中央大学の宮間純一教授は、こう述べる。

■初の国葬は岩倉具視
 国葬は世界各国で行われている儀式だ。宮間教授は、日本では一般的に「国が主催して国費で行われる国家儀式」と解釈されるという。
 大久保の葬儀から5年後の1883(明治16)年、右大臣を務めた岩倉具視の葬儀が日本初の国葬となった。官報によって天皇が執務をしない3日間の「廃朝」が発表され、死刑執行が停止された。東京では盛大な葬列が組まれた。
 その後も明治・大正期を通じて国葬は実施され、1926(大正15)年、「国葬令」が公布された。
 「天皇や国家に特別な功績があったとされる、『功臣』に天皇から国葬を賜ることが明文化されます。国葬は叙位・叙勲などと同じ栄典の一種で、その中でも最高位の一つに位置します。国民は喪に服すことを求められ、天皇や国家に尽くした功臣を国全体で悼むことで、国葬は天皇のもとに国民を統合する文化装置として機能しました」
 戦時中、国葬は戦意高揚・戦争動員の目的で利用される。43年、太平洋戦争で戦死した連合艦隊司令長官の山本五十六が国葬の対象となった。
 「山本五十六の国葬は象徴的です。山本は知名度が高い軍人でしたが、先例に照らして国葬の対象となるかは疑問です。山本の国葬が行われた年は、戦局が悪化し、国民の生活も苦しくなっていました。政府は、国葬を通じて国民に戦争協力を促し、不満を抑えつけ、戦争に総動員することを目的として山本の死を利用します」
 当時の首相は東条英機。東条は国葬に際し、山本の精神を継承して「米英撃沈」に邁進し天皇の心を安んじなければならないなどと国民に訴えた。国葬は権力とは異なる思想を排除する装置として機能し、国民は戦争への協力を強いられたという。
 「このように、国葬は被葬者のためではなく、主催する側が政治的意図をもって利用してきた歴史があります。ナショナリズムを高揚させる機能を持ち、国家による思想統制や戦時動員などにも利用されました」
 戦後、国葬令は新憲法が施行されるのにともなって47年に失効する。だが67年、閣議決定で吉田茂元首相が国葬となった。その背景について、宮間教授はこう見る。

■戦後復興のシンボル
 「吉田茂が亡くなったのは、日本が敗戦から立ち上がり高度経済成長期に入って国民が生活レベルで豊かさを実感できるようになっていた時期です。国葬が行われた翌68年には『明治百年記念式典』が日本武道館で行われ、明治維新以降の日本がいかに素晴らしかったのかと近代を賛美する歴史像が現れていた時代でもあります。一方で時の政権は、ベトナム戦争に対する反戦運動など難しい課題も抱えていました」
 吉田は戦後復興を進めてきたシンボル的政治家だった。その吉田が行った功績の面をたたえることで、当時首相だった佐藤栄作が自らの政治基盤を安定したものにしようという意図があったのではないかという。
 天皇・皇后・皇太后を除けば、岩倉具視から吉田茂まで、国葬になったのは計21人。その中で皇族・元大韓帝国皇帝を除く14人は政治家か軍人だ。
 今回、安倍晋三氏の国葬が発表された時、宮間教授は「まず驚いた」と振り返る。
 「国葬は国家が特定の人間の人生を特別視し、批判意見・思想を抑圧しうる制度。戦後日本の民主主義とは相容れないもの。大日本帝国の遺物で、現在の日本には必要のないものと考えています。それを今、再現させるのはどういうことなのか。岸田首相はじめ国葬を決定した人たちは、その点を検証していないのではないかと思います。そういう意味でとても怖い」
 宮間教授は、今回の国葬が民主主義を壊す一つのステップになることを最も懸念する。
 「もちろん、国葬だけで今の政治体制や国家の在り方が劇的に変わることはないでしょう。しかし、戦後の日本国憲法下において、国民主権は基本原理。『国葬』(『国葬儀』)と名乗る儀式を実施する以上、国民が同意して行われなければいけません。国民の同意をつくる場は行政府である内閣ではなく、国民が選挙で選んだ代表者で構成される国会です。吉田茂の国葬も何ら議論のないまま強行された。国葬に関する法律がないのに国会での審議を省き閣議決定したことは、議会制民主主義に反します」
 今回、閣議決定で国葬を行った前例が将来的に、再び時の政権に利用されないとは限らない。前例をつくったのは、そういうことを意味するという。

■すでに「分断」生じる
 55年前の吉田茂の国葬では、政府は各省庁に弔旗掲揚や黙祷を求め、学校や一般の会社にも協力を求めた。今回、政府は「民間に弔意表明を要請しない」と強調する。だが、宮間教授は、国を挙げて葬儀をする以上、影響が出ないことはあり得ない、何らかの影響が及ぶことは必然的にあり得ると語る。
 すでに、国葬を行うことで国民が分断される状況が生まれています
 7月12日に安倍氏の私的な葬儀が増上寺(東京都港区)で行われた際、政府が指示を出したわけではないが、いくつかの自治体の教育委員会が学校に対し半旗の掲揚を要請した。今度の国葬でも、同様の事態が起き得るだろうという。
 民間企業でも同じだ。例えば、経営者や上司が国葬に賛成の立場だった場合、黙祷などを求められる可能性もある。その際、国葬に反対だったり、興味がなかったりする人がどれほど従わずにいられ、内心の自由を守ることができるのか。国葬が終わった後も、「あいつは右だ、あいつは左だ」というレッテル貼りが始まるのではないかと懸念する。
 「私は、安倍氏に限らず国葬そのものが不要だという意見です。一方で、国葬が必要、安倍氏の国葬に賛成という意見もあります。重要なのは、賛成派も反対派も内心の自由が守られなければいけないことです。弔意を示さないことも、示すことも強制されてはいけない」
 そして、こう続けた。
 「岸田首相は、かつて戦争に動員するために用いられたことのある儀式を、何の検証もなしに何のルールもないまま今日に蘇らせましたその事実を、国民一人一人が考えてほしい。民主主義を守るためにも、大事なことだと思います」     (編集部・野村昌二)