2022年12月12日月曜日

12- アメリカの大学はプラトンとマルクスを学生に教えている - 理想と情熱の哲学

 世に倦む日々氏が掲題の記事を出しましたので紹介します。
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アメリカの大学はプラトンとマルクスを学生に教えている - 理想と情熱の哲学
                       世に倦む日日 2022年12月9日
中国の政治を論じた前々回の記事で、中国の政体である人民民主主義制について、基本的に西洋政治思想史の嫡流の一つに位置づけられるものだと書いた。中国の政体は現在の世界ではかなり特殊で例外的な仕様であり、ベトナムやキューバなどごく一部の国でしか採用されていない。そうした異端的な政体を基礎づける思想に対して、果たして「嫡流」という性格を与える整理が正しいのかどうか、少し不安な気分になった。念頭にあるのは、①プラトンの「哲人政治」であり、②ルソーの「立法者」であり、③ロベスピエールの「最高存在」であり、④パリコミューンの経験を経てのマルクスの「プロレタリア独裁」へ至る一本の線であり、理想的な国家権力を構想し措定する政治思想の流れである。

この系譜は、いわゆるリベラルデモクラシーの思想軸とは明らかに一線を画するものだ。敢えて図式化すれば、対立し交錯する(英米系と大陸系の)二本の流れとして範疇仕分けすることもできそうに見える。だが、この見方が本当に根拠があり学問的に妥当なのかどうか、やや強引で粗削りな分類と表象化かもしれないと心配になり、アメリカではプラトンの「哲人政治」をどう認識し意味づけているのだろうと興味を持った。マルクスの源流という位置づけと了解はあるのだろうか。その場合、プラトンの思想的評価はどうなっているのだろうと気になった。そこでネットで調べ始めたら、実に驚くべき結果に直面したので、興奮を覚えながら報告する次第である。アメリカの大学では、プラトンとマルクスを徹底的に教育しているのだ。紹介しよう。

納富信富
最初に見つけたのは納富信富のテキストである。元国際プラトン学会の会長。東大。田中美知太郎の孫弟子だろうか。現在のプラトン研究の権威だが、57歳と年齢は若い。プラトンの『国家』を概説するサイトでこう述べている。

2001年にイギリスの新聞「ガーディアン」では、哲学の専門家を中心に大々的な調査を行い、これまで書かれた哲学書の中で何が一番重要かという、いわば人気投票を行いました。その結果、1位がこのプラトンの『ポリテイア』(The Republic)という本でした。少し前のデータですが、イギリスを中心とするヨーロッパの学者の方々がこれまでに書かれた哲学書の中で最も重要な著作と認定したということです。

また最近、全米トップ10の大学で、学生対象のようですが「一番読んでいる本は何か」という調査が行われました。統計上のトップはやはりプラトンの『ポリテイア』ということでした。ハーバードやMIT、スタンフォードなど、アメリカでトップの大学の学生たちの間で、おそらく文理を問わず一番読まれている、読まなくてはいけないと思われているのが、この本だということになっています。

全米大学教科書トップ100
へえ、そうなのかと、この指摘に驚き、本当なのかと確かめるところとなった。日本学術会議会員でサントリー学芸賞を受賞している権威の弁だから、まさか誇張はあるまいと確信したが、プラトン賛辞を熱く綴る筆致にどこか大袈裟な響きもあり、素人としてエビデンスが欲しいと思った。日本では、プラトンは古代ギリシャの哲学者の一人であり、著名な思想家であり、残している古典理論は重要で必須の知識だけれど、ここまでの高い評価はなく、これほどの人気と関心はない。そもそも、納富信富も言及しているように、プラトンには(英米にとって悪魔である)全体主義の起源とされる要素と性格が間違いなく存在し、その点からも、リベラルデモクラシーの根拠地であり総本山である英米で、このプラトンの地位と評価は意外に感じた。

そこで、裏付けとなる具体情報をさらに探索したところ、オープン・シラバス・プロジェクトが纏めた「米国の大学の授業でよく使われている文献トップ100」に遭遇した。文系理系総合した順位が示されているが、このランキングには本当に感嘆する。納富信富の指摘は事実だった。1位がストランクの『英語文章ルールブック』、2位がプラトンの『国家』、3位がキャンベルの『生物学』、4位がマルクスの『共産党宣言』、5位がアリストテレスの『二コマコス倫理学』、6位がマキアヴェリの『君主論』、7位がホッブスの『リヴァイアサン』、8位がソポクレスの『オイディプス王』。1位の本は、教員が学生に論文やレポートの書き方を指南する上での必読マニュアルとして活用しているのだろう。プラトンの『国家』が事実上の1位だ。

プラトンとマルクス、ギリシャ・ローマの古典
人文社会系では、プラトンの『国家』の次にマルクスの『共産党宣言』が来ている。これも衝撃の事実ではないか。他を押しのけて第2位。マルクスが2位である点について、オープン・シラバス・プロジェクトは注釈と説明を付けていて、この総合ランキングを弾き出す際の元データとなった、歴史、政治学、経済学、社会学、哲学、等々のフィールドで、マルクスは高順位を獲得しているため、総合ランキングでこうなったと「釈明」している。体操競技の個人総合得点と同じ計算方式の結果だ。いずれにせよ、このようにアメリカの大学は学生にマルクスを推薦し、学問研究の必修教材としているのである。これがアメリカの大学教育の事実なのだ。アメリカの若者が社会主義を肯定する原因が頷けるし、OWS運動の背景と必然が理解できる。

オープン・シラバス・プロジェクトの100冊のランキングを見て、アメリカの大学教育は素晴らしいなあと感動した。古典が入っている。学生に大事な古典を読ませている。古代ギリシャの作品が多い。100冊の中に、プラトンは6冊、アリストテレスは5冊も入っていて、他を圧倒している。いかに教授たちがプラトンとアリストテレスを熟読し、自らの人生と専門研究の糧とし、その恩恵を踏まえた上で、学生たちに課題図書として精読させているかが分かる。プラトン・アリストテレスと常に対話し、知の原点に還り、物事を根源から問い返して本質を見極める営為に努め、論理的能力と科学的知性を磨いている環境が分かる。アメリカの大学は、まさにアテナイのアカデミアの現代版なのであり、教授たちはプラトン・アリストテレスの弟子なのだ。

日本の大学の指導図書ベスト100
民主主義の考察と理解は、決してトクヴィルの1冊(31位)で終わりではないのである。それが決定版で、その理屈さえ頭に入れて水戸黄門の印籠の如く結論すればいいというものではないのだ。自由と正義も、ロールズの1冊(76位)を読めばそれで決着というわけではない。ロールズを教条的に振りかざせば、それで自由と正義の問題が解決して終端するのではない。プラトン・アリストレスに遡って一から問い直し、ロゴスを研ぎ澄まし、自分の頭で理論の構成に挑むのである。アメリカの大学はそのように学問し、学生を教育している。古典から学び、古典を血肉化している。古典を学び合う知の共同体として動いている。素晴らしいことだ。これこそ知の強さの秘訣だろう。日本とは全く違う。日本のアカデミーは、そのときどきの欧米の流行思想を普遍的教義として崇め奉り、教授が商売しているだけだ。

翻って、わが日本の大学の教材状況はどうか。比較資料として、有名国立大の教師が新入生に勧める100冊という情報があり、ランキングのデータが並んでいる。どれも価値のある立派な文学書や研究書や思想書が並び、納得感は十分するけれども、アメリカとはずいぶん違うという残念な感想を抱かされる。あくまで大学生の教養の指導書群であり、講義の教科書ではないから、単純な比較はできないが。それにしても、ウォルフレンが11位に来ているのに、丸山真男が94位という順番は解せない。首を傾げる。1位の『銃・病原菌・鉄』は、こんなに高評価される本なのかと戸惑う。両方のベスト100冊を見て思うのは、日本の大学の教養なりリベラルアーツが、いわゆる博覧強記や博識多芸にフォーカスされていて、古典で知を鍛えるという修行的契機が薄いことである。後述するように、やむを得ない面はあるにせよ。

つぎつぎとなりゆくいきほひ
日本のベスト100冊は、果たして10年後も不動の内容だろうか。その懐疑を否めず、やはり、日本らしく、流行を取り入れた中身になっている感が漂う。一方のアメリカのベスト100冊は、20年経っても30年経っても変わらぬ顔ぶれだろう。何と言っても、2千年も昔のギリシャ・ローマの古典が30冊も並んでいるのだ。日本では知の伝統が積み重ならないと丸山真男が嘆いていたが、それとは真逆の、伝統に真摯でアグレッシブなアメリカの知的環境に脱帽させられる。羨望を覚える。ベスト100冊が入れ替わり、知の標準軸がだらしなく移ろい、その変化(堕落)を面白がって愉しみ、流行を商売して銭儲けし、流行の取り込み競争で立ち回ってのし上がり、マスコミで顔を売り、学会のボスや出版社や文科官僚とコネを作り、派閥を作って威張るのが日本のアカデミーだ。空虚というほかない。

つぎつぎとなりゆくいきほひ。同じ懐古談を何度も述べて恐縮だが、1970年代、10代の頃、私が暮らしていた町は人口1万人の小さな田舎町で、町に書店は一軒だけだったが、店の奥側の壁の書棚にマルクス・エンゲルス全集がバーンと陳列されていた。マルクスの文庫本は同じ著作が複数の出版社から出ていて、岩波、大月、青木だけでなく角川や新潮の商品も並んでいた。そこは別に知的な書店でも何でもなく、雑誌や中高生の参考書とかを日常販売するただの田舎のよろず本屋である。私は小学生のときは少年マガジンを買い、高校生のときは奈良林祥のエロ本を買ったりしていたのだけれど、大人たちは高橋和己と安部公房の文庫本に手を伸ばしてレジに運んでいた。いい時代。政治は、三角大福と革新自治体の時代であり、公明党がまともな野党をしていた時代だった。つぎつぎとなりゆくいきほひの一瞬。

日本の知の伝統と丸山真男
アメリカの大学教材のベスト100冊を見て、予想外だったのは、アーレントの本が入ってない点だ。いわゆる現代思想の中でサイードとフーコーとロールズは入っているが、人気抜群のはずのアーレントの姿がない。アメリカも「なりゆくいきほひ」が僅かにあるのだろうか。最近、アーレントの話題を多く聞かない。アカデミーで定番に収まっているはずのアーレントの地位に揺らぎが生じているのかもしれない。私個人の感覚としては、この30年、アーレントは過剰に持ち上げられすぎた思想家で、リベラルデモクラシー(米英欧=ネオリベ=ネオコン)が世界を制覇する上で都合のよい言説だったから政治的に利用したのだと思っている。日本の左翼学者たちはこぞってマルクスから転向し、フーコーへ、ロールズへ、アーレントへと流れ、生き延びる場を見つけ、現代思想の新しい神殿を築いて司祭に収まり、小銭稼ぎの商売に勤しんだ。

それにしても、アメリカの大学の古典教育の見事さというか、知のスタビリティ⇒安定性とリライアビリティ⇒信頼性には頭が下がる。この教育を受けて若者が育ち、国際政治や金融経済や法律や経営(マーケティング・マネジメント)の実学を学び、エリートとなりリーダーとなるのだ。日本の場合は、まさか古代・中世・近世の古典を大学で学生に教え込むというわけにはいかない。古事記や愚管抄や葉隠を、あるいは論語と老子と孫子を読ませて知を鍛えるという具合にはいかない。日本が「つぎつぎとなりゆくいきほひ」にならざるを得ない理由と事情がここにある。だから、新しい伝統を作らなければならないのだと丸山真男は言い、私もその意見に同意する。その観点から鑑みれば、日本のベスト100冊の1位には丸山真男の『現代政治の思想と行動』か『日本の思想』が収まらなければいけないだろう

戦後日本の知識人がみな熱読して勉強してきた本であり、日本語を習得する外国の人文社会系の日本研究者が読んできたスタンダードな教科書なのだから。丸山真男は上位互換の知である。外国人の日本研究者はみな丸山真男の知に触れて敬服する。それ以前の日本の思想家の古典には上位互換の契機と内実がない。だから、日本の大学は、丸山真男をプラトンの位置に据えるべきなのだ