2022年12月23日金曜日

日本の国制と憲法の独自性と優位性 長谷部恭男の定説を批判する三つの補論

 世に倦む日々氏が掲題の記事を出しました。

 これはプラトンのいう「哲人政治」が理想の形態であるという主張で、日本の現実が衆愚政治に堕しているという批判でもあります。
 古来「哲人(による)政治」は理想ではあるものの、誰がどのようにして哲人を探し出して統治者となることを人民に納得させるのか、その方法論がないということで事実上否定されてきました。そして「多数決原理」に基づく民主政治(民主主義)が最高の統治形態であるということに落ち着いたのでした。
 世に倦む日々氏はそんなことは承知の上で述べているのであり、具体的に平成天皇が統治者になれば理想の政治が行われた筈とまで述べています。そのこと自体は十分に同意できるのですが‥‥  警世の書といえます。
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日本の国制と憲法の独自性と優位性  長谷部恭男の定説を批判する三つの補論
                      世に倦む日日 2022年12月20日
前回の記事について追補の議論を3点述べる。第一は、日本国憲法の平和主義がリベラルデモクラシーの上位互換に位置するという原理的上位性の意味についてである。加藤哲郎が、自身が設営するサイトのトップに丸山真男の次の言葉を座右の銘として掲げていた。「戦争は一人、せいぜい少数の人間がボタン一つ押すことで一瞬にして起せる。平和は無数の人間の辛抱強い努力なしには建設できない。このことにこそ、平和の道徳的優越性がある」。丸山真男の死後に小尾俊人の編集で出された『自己内対話』(1998年 みすず書房 P.90)に収められていたノートの一節だ。加藤哲郎の紹介によって広く認知され、ネット上でも多く言及されている。

日本の憲法が制定する民主主義は、単なるリベラルデモクラシーではなく、人民が政府による戦争から人民を守るために共同して統治権力(主権)を構成し行使するデモクラシーである。戦争を防ぐためという目的と決意が掲げられ、日本国のアソシエーションの原則が宣言されている。平和主義が民主主義に先行していて、敢えて言えば、平和主義が目的で民主主義が手段という論理構成になっている。米英欧のデモクラシーには、こうした本義や特徴はなく、戦争拒絶という国家の前提がない。彼らは国家を防衛するために戦争を行い、人を殺す。代議制で国民から選ばれた指導者が戦争を発動し、国民に戦場で殺人をさせ、それを正当化する。

■ 第一の論点:平和国家の倫理的優越性
丸山真男は、「平和の道徳的優越性」と言っているが、やはり、戦争放棄を掲げた国家の方が、戦争を前提した国家よりは倫理的に優越していて、人類の歴史から考えて価値的に上位にあると断言できるだろう。戦争という国家の暴力から庶民を守ること、庶民が戦争で命を奪われない法的環境を作ること、平和を人権として確立すること、これは長い人類史の悲願であり、過去の人々において遠い理想だった。物理的暴力を行使して争い合い、傷つけ合わなくても、理性の力で話し合い、相手を信頼して妥協をすることで、互いの利益を実現できること、そのことを最高法規の基本原理として掲げ、内外に向けて規範化した意義は大きい。人類は、初めて、庶民が戦争せずに済む国家を得た。

人類史から戦争を除去し消滅させる展望を得た。そう言えるはずだ。ときどき、それは夢想で幻想だという声を聞くけれど、決してそんなことはないと思う。人間は倫理を積み上げて資産とできる生きもので、将来の子孫のためにより善い社会環境を残そうと努力する生きものだ。そこに個の生きる意味を見出す道徳的存在だ。私のこれまでの短い人生の時間でも、ずいぶん倫理的な向上と善化を見てきたと証言できる。進歩があった。障害者に対する対応がそうだし、犯罪被害者の権利もそうだ。被災者支援も。人類に有害な悪は滅びてきた。例えば、喫煙が地上から消えつつある。ケネディの呼びかけから半世紀で半ば理想の実現へ進んだ。飲酒運転も。巨視的に見れば、奴隷制がなくなっている。身分制も。戦争も必ず地上からなくせる。

■ 第二の論点:衆愚制の堕落を抑止する象徴天皇制
補論の二点目。日本の政体が欧米のリベラルデモクラシーに単純に還元できない理由は、憲法第1条にある。長谷部恭男は、日本の憲法は ①リベラルデモクラシー(議会制民主主義)の範疇に属し、②ファシズムや ③共産主義の憲法(政体)とは異なり、②と③に勝利した普遍的なものだと言い、①こそ人類普遍的な価値を担ったものだと断言するのだが、日本の象徴天皇制に目を向けない。標準教科書である岩波新書『憲法とは何か』では、象徴天皇制についての考察と論及がなく、捨象されている。日本の憲法理論の定説である立憲主義は、日本独特の国制である象徴天皇制に注目と関心がなく、その意義を積極的に認めようとしない。この態度こそ立憲主義の限界であり陥穽だと私は思う。

「第1条:天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」。この条文の意味については、これまでブログで何度も議論してきた。子どもの頃からこの条文は不思議で、趣旨の理解に首を捻る問題系だった。単純に読めば、この国の国民は常に天皇を尊敬していて、国家を代表する人格(元首)として認め崇めているのだという解釈になる。当時の天皇は昭和天皇だった。それゆえに、尚の事、第1条が摩訶不思議で、何やら大日本帝国憲法が盲腸のように残っているような不具合な感覚で捉えていた。現在は全く認識が変わり、平成天皇夫妻の努力と活躍と実績によって、第1条の理念の何たるかを思い知り、第1条は素晴らしいものだという評価になっている

■ 衆愚の選挙に拠らない超越した指導者
第1条に記された象徴天皇制こそ、日本国憲法をリベラルデモクラシーの憲法とは分ける決定的な要素だ。日本の政体は独自であり、言うならば、完全で純粋なデモクラシーの政体ではない。ルソー的なリジッド⇒厳格な、窮屈なな国民主権ではない。国民を指導する存在が投票によって決まっておらず、王家の世襲で決まっている。大衆の選挙から無縁の位置に指導者がいる。実は英国もそうだ。その意味で、英国と米国とは政体が異なり、リベラルデモクラシーの範疇に一括してよいのかという疑義が差し挟まる。英国は、世襲の王様であるエリザベス女王が国民を啓蒙し、それだけでなく国家の安保外交政策に王室が関与してきた。日本の平成天皇夫妻は、英国の女王よりもはるかに完璧に、崇高に、謙虚に、理想的指導者としての役割を果たしていた。

デモクラシーは衆愚制に堕落する。デモクラシーは衆愚政治である。プラトンはそう言い、デモクラシーを拒否し、哲人政治を理想とした。私は還暦を過ぎた老人になり、長く日本の政治を見てきて、これほど熱く激しくプラトンに共鳴する自己を発見することはない。平成天皇夫妻が親政する哲人政治の日本であったなら、せめてブータンのような王室の超越的指導性が全般に利いた立憲君主制であったなら、どれほど日本は豊かになり、素晴らしい国になり、私も幸福な人生を送れただろう。GDPは1000兆円を超え、中国の熱烈な推挙で日本は国連常任理事国になっていたに違いない。21世紀世界を平和と幸福に導いただろう。ITの標準仕様を仕切って製品提供する国になり、世界中の大学が日本語を第二外国語にしていただろう。そう確信する。

■第三の論点:冷戦は終わっていない
補論の三点目。それは、果たして本当に冷戦は終わったのかという問題だ。長谷部恭男は、冷戦の終結をもって20世紀の国民国家の憲法原理がリベラルデモクラシーに収斂し確定したと言う(岩波新書 P.56 P.68)。リベラルデモクラシーのみが普遍的な政体の地位を得たとする。この議論は、まさしくフクヤマの『歴史の終わり』の認識の投影であり、フクヤマの方法の憲法理論への適用だ。批判して言えば、反共イデオロギーたるネオコン思想の憲法学への持ち込みである。が、目の前の現実はどうか。今、新冷戦が始まったと(西側諸国の)人は言い、アメリカは中国と「競争」して勝つのだと息巻いている。最初の冷戦は終わったが、第二の冷戦が始まって真っ最中ではないか。明らかに世界は冷戦の中にある。そして、中国は社会主義国である

嘗ての冷戦のようなイデオロギー対立の図式は、今はないかもしれない。しかし、中南米で勢いを増し、人々の支持を集めている政治思想は、リベラルデモクラシーに帰属させられるものではなく、社会主義と自由民主主義の両方の折衷を追求するものだ。中南米ではカストロとゲバラの理想が今も生きている。中南米の人々がフクヤマや長谷部恭男の所論に頷くことはない。そしてまた、10年前にアメリカで起きたOWSウォール街を占拠せよ Occupy Wall Street)の運動は、リベラルデモクラシーの体制に挑戦する契機を持ち、次の別次元のラディカルなデモクラシーを探る取り組みだったと言える。それは現代アメリカで発生した社会主義運動であり、左派のモメンタムが一気に興隆し可視化された瞬間だった。アメリカの若者は社会主義への偏見や拒絶の意識がなく、それを一つのイデーとして認めている。

■ BLM運動が暴露したリベラルデモクラシーの欺瞞
OWS運動から10年後、アメリカではBLM⇒黒人の命は尊重されるべき Black Lives Matter運動が台頭した。OWSはいわば経済にフォーカスした、資本主義(新自由主義)の矛盾を克服せんとする運動だったのに対して、BLMは人種差別反対の運動だったが、思想の中身を分析すれば、これまた、リベラルデモクラシーに対する根源的な懐疑と転覆の宿意を孕むものであった点は否めない。リベラルデモクラシーの欺瞞を衝き、その前提にある不条理を暴露し否定する抗議運動だった。その影響なのかどうか、最近、ハンナ・アーレントの注目度が落ちている印象を受ける。この30年間、あれほど思想界で羽振りがよく、神様のように君臨して拝跪されていたアーレントが、どうやら最近は(ポリコレ的角度から)評判が悪い。アーレントこそ、リベラルデモクラシーの普遍性と説得力のシンボルで、まさに水戸黄門の印籠だった。

今年、ウクライナ戦争があり、G20とCOP27があり、FIFAW杯があった。ウクライナ戦争では、西側とそれ以外の諸国の対応が分かれた。G20はインドネシア、COP27はエジプト、W杯はカタールで開催され、発信地が非欧米の地だった所為もあり、世界が二つに分かれている印象を強く感じさせられた一年だった。冷戦後の世界を支配・統御する価値観を独占し、それを一方的に他にダウンロードさせてきた米欧が、威光と発信力を衰えさせ、中東(西アジア)・アフリカ・中南米から異議申し立てを受けているように見える。特に、EUは帝国化して内部を一元化しつつ、外から見れば逆に小さく萎縮し、偏屈狭隘に凝り固まった風に感じられる。活力と柔軟性がなくなった。東野篤子と鶴岡路人に表徴・体現された貧相で低質で内向きなEUと化した。

パワーとエネルギーとダイナミズムは、非西側の主体性にあり、西側は小さく固まり、説得力を衰えさせているように映る。中東(西アジア)とアフリカにはイスラム教の伝統があり、西欧に植民地支配され収奪された歴史がある。中南米にはカストロ・ゲバラの政治思想があり、「アメリカの裏庭」で搾取された過去がある。これらの国々の国家哲学と将来構想は、決して長谷部恭男やフクヤマのスタティックな(ドグマティックな)定式に仕様還元されれないだろう。それを冷戦と呼ぶか、欧米支配への挑戦の蠢動と呼ぶかは別にして、価値観をめぐる大きな闘争はなお複雑な位相で続いているのが現状だ。以上、リベラルデモクラシーの憲法論の批判について三つの論点を補足した。第一に日本国憲法の倫理的上位性。第二に衆愚政治を排除する象徴天皇制の意義。第三に冷戦は続いていること。

日本には日本の独自の道があるはずだ。