2022年12月2日金曜日

統一教会に対する解散命令は、是か非か(澤藤統一郎氏)

 澤藤統一郎弁護士のブログに、「統一教会に対する解散命令は、是か非か」が載りました。

 はじめに統一協会系の日刊紙「世界日報」(関東と沖縄の一部)と「神社新報」の主張や研究者の意見に触れ、宗教学者島薗進氏の「旧統一教会が行ってきた正体を隠した伝道は、教団組織による宗教の押しつけにあたる。…宗教の押しつけが制限されることが、信教の自由を守ることにつながる」という考え方に賛同すると述べています。
 そしてかつて本覚寺による「消費者被害・救済」に取り組んだとき、「加害者」側からの、「信教の自由侵害だ」「裁判所を使った宗教弾圧だ」という抗議に晒された経験に基いて自分なりに整理したのは、「宗教団体が国家と対峙する局面」と、「巨大宗教団体が個人と対峙する局面」とでは、規律する原理原則がまったく異なるということで、前者を垂直関係、後者を水平関係と名付けて、垂直関係では国家から権力的干渉を受けない宗教団体の信教の自由が重んじられるべきだが、水平関係とは消費者問題そのものであると考えたとして、国家権力は謙抑的でなければならならず、また、巨大宗教団体は信徒や布教対象の個人に対して、謙抑的でなければならないと述べています非常に説得力があります。
 澤藤氏はかつて東京弁護士会消費者問題対策委員長だった時代に、「本覚寺」の霊視商法被害の救済に関わり、本覚寺側は霊視・祈祷・除霊というサービスに対する対価ではなく、飽くまで喜捨や布施という意味付けであるとして対抗したそうですが、1次~10次に及ぶ訴訟で、請求した返還額の平均96%を回収し、「本覚寺」も、その後に変身した「明覚寺」も解散させられました。
  ⇒(7月27日)霊視商法は潰され霊感商法は生き残った なぜだ?(澤藤統一郎氏)
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統一教会に対する解散命令は、是か非か。
                   澤藤統一郎の憲法日記 2022年12月1日
 「世界日報」とは、言わずと知れた統一教会(系)メディア。その11月28日号の社説が、『「質問権」行使 解散ありきでなく公正に』という表題。
 「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)を巡る問題で、永岡桂子文部科学相は、旧統一教会に対し宗教法人法に基づく「報告徴収・質問権」を行使した。」という書き出しで、「質問権行使」やその先の解散命令に、事実上当事者として異を唱えるものといってよい。
 その論調は、「信教の自由の抑圧に繋がらないよう、公正な調査、判断を求めたい」「質問権行使が教団の『解散ありき』であってはならない」「宗教活動への規制は公共の福祉とのバランスをあくまで公正・慎重に勘案し行うべきである」「信教の自由という国家の基本に関わる問題を政争の具にすることは許されない。」というもの。
 同じ11月28日、「神社新報」が「宗教法人をめぐる議論 社会的影響と自律の精神」という表題の論説を掲載している。こちらは、「準当事者」という立場。宗教団体に対する法の縛りを嫌う基本的立場から、「ややもすれば宗教全体に対して批判的な注目も集まりかねない昨今の状況」を憂い、この問題のとばっちりへの警戒感が滲み出ている。

 「旧統一教会の問題は今後、宗教法人法に基づき質問権が行使され、明白な法令違反が確認されれば解散命令が請求されることともならうが、加へて被害者救済の方途や養子縁組の斡旋をめぐる実態解明などにも適切な対応が求められよう。さらに教団の名称変更が認証された件もあるため、同法の骨子の一つである認証制の解釈や、また団体における法令違反と解散命令の議論などにも繋がりかねず、今後の事態の進展にも引き続き留意したい」との慎重な姿勢だが、メインのトーンは、かつての神社本庁総長の言葉を引いて、以下のとおりである。
 「少なくとも私が現在長をいたしてをります組織、神社本庁の傘下にあります八万の神社は真剣にとにかくやってきた。それに対して、おまへたちの今までのやり方が悪いから、さういふ悪いことが起こらないやうに法律を変へて、負担もふやすぞといふことは言へない。ですから、その点については、改正について十分留意をされたい」
 解散命令にも質問権行使にも当事者や準当事者が消極的であることは当然として、世論は積極的に歓迎の姿勢である。政府も、できるだけの積極姿勢を打ち出さざるを得ない。

 では、研究者はどうか。もちろん一色ではない。「信教の自由は重要だから、解散命令には慎重でなければならない」というか、「信教の自由は重要だが、解散命令もやむを得ない」とするか、なかなかに難しい判断。
 本日の朝日の『耕論』に、「解散命令請求、その前に」と題して、島薗進(宗教学)、斉藤小百合(憲法学)、河野有理(政治学)の3氏が持論を寄せている。
 「政府の解散命令請求に賛成か、反対か」という問いかけをしていないのだから当然といえば当然でもあるのだが、結論は分かりにくい。島薗の積極論だけは分かり易いが、斉藤と河野は、明示はしていないものの結局のところ、消極論なのだろう。
 それぞれが提示している問題点は、それなりに考えさせられる。無駄なことを言っているとは思わないが、これだけ問題が煮詰まってくると、賛成か反対かの結論が求められる

 私は、島薗の次の指摘に賛成する。
 「『信教の自由』への誤解が対応を誤らせてきた面があったのではないでしょうか。戦後、信教の自由を確立するために、国家による宗教の押し付けを許さない政教分離が憲法によって明確に定められました。…旧統一教会が行ってきた正体を隠した伝道は、教団組織による宗教の押しつけにあたります。…(むしろ、この)宗教の押しつけが制限されることが、信教の自由を守ることにつながります。」
 かつて私は、宗教団体(あるいは、「宗教まがい」)による「消費者被害・救済」に取り組んだとき、「加害者」側からの、「信教の自由侵害だ」「裁判所を使った宗教弾圧だ」という抗議に晒された経験がある。

 そのときに自分なりに整理したのは、「宗教団体が国家と対峙する局面」と、「巨大宗教団体が個人と対峙する局面」とでは、規律する原理原則がまったく異なるということ前者を垂直関係、後者を水平関係と名付けて、垂直関係では国家から権力的干渉を受けない宗教団体の信教の自由が重んじられるべきだが、水平関係とは消費者問題そのものであると考えた。国家権力は謙抑的でなければならならず、また、巨大宗教団体は信徒や布教対象の個人に対して、謙抑的でなければならない

 統一教会が信徒や布教対象者に対して圧倒的な強者としての支配力を行使していることは、自明というべきであろう。そのような統一教会に法人格を付与して法的に優遇すべき筋合いはない。問題は、権力がその先例を濫用する波及効果にどのようにして歯止めを掛け得るか、ということなのだと思う。