2022年12月16日金曜日

16- 旧統一教会問題 また出た「日本人の悪癖」 ~“みそぎ”は済んだ?

 国会の最終日10日に成立した救済法は、全国弁連の弁護士に言わせると「無いよりましという程度のものであって、これで救済の幅が広がったということは到底言えない」「新法では禁止行為や取消権等の対象となる行為の範囲が狭すぎて、“統一教会”被害について言えば、被害救済にほとんど役立たないものでした。

 岸田政権はそれを承知の上で無理やり成立させ、国会閉会をもって一件落着にする積りです。「大山鳴動してネズミ一匹」というわけです。
 ところがそれと連動するようにマスコミの方も、統一教会追及は終焉してしまったということです。それは岸田政権が意図的に終焉させたのとは異なり、いわば「マスコミの論理」に拠っているようです。ノンフィクション作家の窪田順生氏がダイヤモンド・オンライン
「旧統一教会問題でまた出た『日本人の悪癖』、大騒ぎして“みそぎ”は済んだ?」という記事を出しました。
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旧統一教会問題でまた出た「日本人の悪癖」、大騒ぎして“みそぎ”は済んだ?
            窪田順生 ダイヤモンド・オンライン 2022年12月15日

いつものように「一時の流行」だった 
旧統一教会に飽きた人々
「反日カルトをつぶせ!」「日本から追い出すまで徹底追及しろ!」と叫んでいた人たちは、いったいどこへ消えてしまったのか――。
 マスコミで朝から晩まで大騒ぎをしていた「旧統一教会問題」の報道がまるで「タピオカブーム」のように終焉してしまった。タピオカミルクティー同様、あまりに氾濫したことで消費者に飽きられてしまったのである。
 およそ1カ月前、FRIDAYデジタル(『旧統一教会問題「放送大幅減」のウラに訴訟より深刻な視聴率低下』、11月13日)が報じたところによれば、報道の激減は、旧統一教会が専門家や報道機関を次々と訴えたこともあるが、それよりも視聴率が取れなくなったことが大きいという。
 手前みそだが、このような状況になることは今年8月時点で本連載の中で以下のように指摘させていただいていた。
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 30年前にワイドショーで連日大騒ぎをしていた「統一教会」の被害が、いつの間にやら忘れ去られていたように、日本人は基本的に熱しやすく冷めやすく、しかも「忘れっぽい」からだ。
 日本人は「どれだけ叩いてもいい」という対象ができると、お祭りのように盛り上がって、相手を自殺に追い込むくらいのリンチをする。一方で、日頃のストレスが発散されてしまうと途端に興味を失ってしまう傾向がある。そうなると、ワイドショーも視聴率が取れないので扱わなくなり、人々も忘れてしまう。
 今回の旧統一教会批判も、そんな「いつものパターン」のにおいが漂う。
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『爆笑問題・太田氏を統一教会「擁護派」と糾弾する日本人に、既視感しかない理由』

 30年前から霊感商法や高額献金などの被害が報じられていたにもかかわらず、安倍晋三元首相が殺害されるまで放置され続け、今もなんとなく収束してしまっている。これは、そもそも国民がこの問題を「タピオカブーム」のように「一時の流行」のように消費している部分があるからだ。

被害者たちが訴えても世論は静か 
なぜ飽きたのか
 …という話を聞くと、「国民の関心が薄れたのは、教団と関係のある大臣の罷免や解散請求への見通し、被害者救済法案など一定の決着を見せたからだ」と反論をする人もいらっしゃるだろう。しかし、この問題に誰よりも真摯に向き合ってきた人々の怒りの声を無視しているのだから、「飽きた」と言われてもしょうがない。
 12月10日、全国霊感商法対策弁護士連絡会が会見を開いて、被害者救済法案について次々とこんな苦言を呈した。
新法では禁止行為や取消権等の対象となる行為の範囲が狭すぎて、“統一教会”被害について言えば、被害救済にほとんど役立たないものとなってしまいました」(日テレNEWS 12月10日)
今の法案については無いよりましという程度のものであって、これで救済の幅が広がったということは到底言えない」(テレ朝news 12月10日)
 被害者の救済にあたっている当事者がここまで不満をあらわにすれば、3カ月前の社会ムードだったら、政府与党に対して「反日カルトを擁護するのか!」なんて怒りが爆発していたはずだ。
 しかし、ネットやSNSを見てみると、「あまり厳しいものにすると、信教の自由を弾圧することになってしまうからしょうがない」とか「創価学会に配慮しながら、自民党もよくやった方だろ」なんて感じで擁護をする人たちも少なくない。
「旧統一教会信者の信教の自由も守るべき」という主旨の発言をした爆笑問題の太田光さんのことを「カルト擁護」とボロカスに叩いて、自宅に卵を投げつけたような人たちは、今のムードをどう思っているのだろう。「カルトに怒れる日本人」がわずか1、2カ月の間に別人のように急変してしまったのだ。
 では、なぜ我々日本人はここにきて急に旧統一教会問題に飽きてしまったのか。
 サッカーW杯で盛り上がってスコーンと頭から抜けてしまった、物価高に防衛増税でそれどころじゃない、などさまざまなご意見があるだろうが、個人的には「みそぎが済んだ」と受け取っている日本人が多いからではないかと考えている。

ある程度のペナルティを受ければ 
「水に流す」伝統的倫理観
 ご存じのように、日本社会では企業や有名人が何かしらの不祥事をやらかすと、「みそぎ会見」をすることが暗黙のルールとなっている。
 謝罪会見を開いて、フラッシュを浴びせられながら頭を深々と下げて、記者から厳しい質問や時に罵声を浴びせられながらじっと我慢をする――。そんな「社会的制裁」を受けないことには、「反省している」と認められず、セカンドチャンスさえ与えられない。
 ただ、これは裏を返せば「みそぎ」さえ済んでしまえば、そこまで徹底的に追いつめられないということでもある。
 ある程度のペナルティを受けさえすれば、「誰が悪い」「何が根本的な問題なのか」というところまでは追及されない。玉虫色の解決というか、なんとなくウヤムヤなまま「水に流す」という日本人のある種の「情け」を、「みそぎ」という文化からは感じられるのだ。
 これは「不浄」「穢れ」を水で洗い清めることで「禊」が済んだとして受け入れてくれる、という神道的な発想に基づく日本の伝統的倫理観だという人もいて、「水に流す」も「禊」という水を用いた神道の儀式からきたという説もある。
 個人的にはこの考えには非常に共感する。報道対策アドバイザーとしてさまざま企業の不祥事対応を手伝ってきたが、そこで「みそぎ」に何度も助けられた経験があるからだ。
 例えば、ある企業で不正が発覚して、記者から厳しい質問がたくさん投げかけられ、批判的な報道が氾濫し、ネットやSNSでもボロカスに叩かれていても、「みそぎ会見」をうまく成功させた途端、急に収束する
 具体的には、それまで厳しく追及されてきた経営者の責任や、不正の根本的な原因などがスルーされる。社長が頭を下げているニュースが日本中に流れることで「十分に社会的制裁」を受けたということで、「撃ち方やめ」となり、バッシングが幕引きとなるのだ。
「こんな会社はつぶれた方がいい」「経営陣が辞任するまで徹底追及すべき」なんて鼻息荒く叫んでいた人たちも別人のように静かになって、広報への問い合わせや、お客様センターへのクレームもパタリと消える。そんな風に社会からバッツシングを受けていた組織が「みそぎが済んだ」と思われた途端、急に社会から許されるという現象をこれまで幾度となく見てきた。
 そういう経験から言わせていただくと、今回の「旧統一教会問題」のクールダウンも、不祥事企業が「みそぎ会見」を成功させると急に叩かれなくなる現象と丸かぶりなのだ。

旧統一教会にとっての「みそぎ」 
日本人の「美徳」がマイナスに働く
 もちろん、旧統一教会はこれまで会見を何度かやっているが、それが「みそぎ」になったわけではない。では、何が「みそぎ」になったのかというと、関係のある閣僚の辞任、解散請求を視野に入れた調査権行使、そして被害者救済法案によって、なんとなく、この問題が解決した、というイメージが社会に広がったことだ。
 マスコミによって、これらの情報がサッカーW杯のように連日お祭り騒ぎで伝えられた。実際には何も解決していないのだが、国民からすれば毎日あれだけ大騒ぎをしていれば、「これだけやれば十分だろ」と錯覚してしまう。そうなると、「反日カルトは日本から出ていけ」と叫んでいた人たちの怒りが鎮まってしまう。そこまで怒っていない人ならばなおさら無関心になっていく。
 かくして、「旧統一教会」報道の視聴率や部数、アクセス数は低下の一途をたどっていき、メディア側も「旧統一教会?なんか新しい動きがあればやってもいいけど…」と敬遠していくというわけだ。
 リスクコミュニケーションを生業としているということもあるが、筆者は「みそぎを済ませる」「水に流す」という考え方は世界に誇る日本人の「美徳」だと思っている。
 相手を徹底的に糾弾して、自ら過ちを認めるまでは絶対に許さないという国も多い中で、相手をそこまで追いつめずに許すというのは、日本人の寛容さと協調性のあらわれではないかと考えている。

 ただ、物事にはなんでも良い面があれば悪い面もある。
 このような考え方が、日本社会のさまざまな課題において、責任の所在を曖昧にさせて、問題の先送りをさせていることも否めない。つまり、よく言われている「何も変わらない、何も決めない日本」の原動力になっている恐れがあるのだ。
 わかりやすいのは、政治家だ。不正やスキャンダルが発覚しても、大臣などの役職を辞することがあっても、会見をしたりすることで「みそぎは済んだ」なんて言って国会議員の座にしがみついている。「説明責任」なんて言葉をよく使う割には、過去の政権の政策を検証して問題点や過ちを認めることもない。「もう済んだことだから水に流してよ」と言わんばかりにスルーしている。
 つまり、日本人の「美徳」が、「いつまでも何も改革できない日本の政治」をつくっている側面があるのだ。
「そんなことはない!今回の被害者救済法のようにちょっとずつだが、政府与党が頑張って社会をより良くしているではないか」という自民党支持者もいらっしゃるだろう。ただ、そういう話をして大人は丸め込むことはできるが、素直な子どもたちや、社会に出る前の若者たちの目は誤魔化すことができない。

何をやっても変わらない 
日本の若い世代の無力感はダントツ
 日本財団が2019年9月下旬から10月上旬にかけて、インド、インドネシア、韓国、ベトナム、中国、イギリス、アメリカ、ドイツ、そして日本の17~19歳、各1000人を対象に国や社会に対する意識を聞いた。
 そこで日本の若者たちだけで見られたのが、「どうせこの国は何もしても変わらないでしょ」と世の中に失望している者が圧倒的に多いという特徴だ。
「国に解決したい社会課題がある」と回答したのは各国で66.2%〜89.1%だが、日本は46.4%しかいなかった。また、「自分で国や社会を変えられると思う」という回答も日本は18.3%でダントツで低く、韓国(39.6%)の半分以下だ。国の将来像に関しても「良くなる」という答えはトップの中国(96.2%)の10分の1となる9.6%しかいなかった
「最近の若者は根性がない、私が若い時は友人たちと朝まで政治について熱く語った」と嘆く全共闘世代も多いだろうが、この「異常な無力感」は若者のせいだけではないのではないか。
 何か問題が起きると、お祭りのようにバッシングが始まって盛り上がるが、「みそぎを済ませた」となると誰もそれ以上、責任を追及しない。そして冷静に振り返ると結局、根本的な問題は何も解決していない。そんなことを子どもの頃から延々と繰り返し見せつけられていれるのだ。「何をやってもこの国や社会は変わらないでしょ」と失望してしまう若者が、諸外国よりも増えるのも当たり前だ。
 今回の旧統一教会問題に関しても、当初あれだけ騒がれた「自民党との蜜月関係」「安倍晋三元首相との関係」もいつの間にやら忘却の彼方だ。教団イベントに参加したとか、「マザームーン」に挨拶したなんて批判された自民党議員たちも多くは次の選挙で再選するだろう。被害者救済法も骨抜きになったし、仮にこれから解散命令請求が出たところで、宗教法人格が剥奪されようが、旧統一教会が本当に「解散」をするわけではない。
 こういう一連の動きを見た若者たちは間違いなくこう思う。「なんやかんや言っても、日本って何も変わらねえよなあ」――。

 タピオカはブームが終焉した後も、ファンが定着して「ゴンチャ」などの人気店は活況だ。旧統一教会問題も同じように社会に定着するのか。それとも、30年前と同じように「もう済んだことだから水に流してよ」と言わんばかりに、忘れ去られていくのか。注目したい。
                 (ノンフィクションライター 窪田順生)