2020年4月13日月曜日

大林宣彦監督が生前語っていた反戦の思いと危機感

 大林宣彦監督が、肺がんのため4月10日夜に82歳で亡くなりました。
 大林氏は映画『花筐(はながたみ)/HANAGATAMI』(檀一雄原作 日米開戦直前を舞台にした青春群像劇のクランクインを控えた16年8月に肺がんが判明し、「余命3か月」と告げられました。肺がんを公表したのは17年4月、映画『花筐/HANAGATAMI』の試写会の場で、その後抗がん剤治療が功を奏し「余命は未定」になりました。
 映画や芸術を「風化しないジャーナリズム」と称し戦争や権力への懐疑を表現しました。
 東日本大震災の翌年に公開された映画「この空の花 長岡花火物語」、続く「野のなななのか(七七日)」は地域の戦史を掘り起こしたもので、「花筐/HANAGATAMIを最終章とする「戦争3部作」でした。それらは「戦争体験の風化が進む現代の日本人に対する危機意識」が作らせたと評されています。

 大林氏は人々から戦争の記憶が薄れること強く警鐘を鳴らしNHKのドキュメンタリーのなかで「戦争」について
「みんながしっかりと怯えてほしい。大変なことになってきている。 過剰に怯えていたほうが間違いないと僕は思う。 敢えて言いますけどね。怯えなきゃいかん。戦争というものに対して。本当に」と語っています。
 反戦の巨匠をまた一人失いました。
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大林宣彦監督が生前、語っていた反戦の思いと安倍政権下の日本への危機感 
「みんながしっかり怯えてほしい。大変なことになってきている」
LITERA 2020.04.
 大林宣彦監督が、肺がんのため4月10日夜に82歳で亡くなった。新型コロナの影響で映画館が公開延期となったが、この日は、病魔と闘いながらつくりあげた最新作『海辺の映画館 ─キネマの玉手箱』の公開予定日だった。
 大林監督といえば、『時をかける少女』などの“尾道三部作”で知られているが、近年は、反戦と平和への思いを強く訴えるようになった。

 今回の新作『海辺の映画館』も久しぶりに尾道に舞台にしたエンターテインメント作品であり、同時に、戦争の歴史を無声映画、トーキー、アクション、ミュージカルといった様々な映画表現で展開していく、大林監督の反戦と映画への思いがつまった作品となっているという。
 それにしても、大林監督はなぜ、戦争と平和をテーマにすえるようになったのか。それは2017年、前作『花筐/HANAGATAMI』が公開される際に、大林監督自身がその理由を語っていた。
『花筐/HANAGATAMI』は、檀一雄原作の、日米開戦直前を舞台にした青春群像劇で、やはり戦争と平和の問題が深く掘り下げられている作品だ。
 この『花筐/HANAGATAMI』の映画化は42年前に頓挫していた企画を復活させたものなのだが、大林監督はその理由について、ドキュメンタリー『青春は戦争の消耗品ではない 映画作家 大林宣彦の遺言』(2017年9月2日放送/NHK Eテレ)のなかでこのように語っていた。

「40年前はやっぱり僕は文学青年だから、放蕩無頼の檀さんのね、青春文学というものに憧れていた部分もあるし。あれから40年経つと、また日本がね、戦争ができる国になったいまになると、あの痛切な気持ちね、あの放蕩無頼っていうのは、“自分の命ぐらいは自由にさせてくれよ”と、戦争に行って、殺され、消耗品になる、そういう戦争を青春として過ごした人たちの無念の気持ちが、実はこれからまたやって来ると、(そう)いうときにね、ようやく、この『花筐/HANAGATAMI』をいま撮るべしという声が聞こえてきたんでしょうね」
 大林監督は、安倍政権下の日本の状況を見て、『花筐/HANAGATAMI』の時代に近づいているという危機感を強く抱くようになったと語ったのだ。
 なかでも大林監督が危惧していたのが、戦争によって若い人たちの命が奪われることになるのではないか、ということだった。それが、『花筐/HANAGATAMI』という映画のなかでキーフレーズとなっていた「青春は戦争の消耗品ではない」という言葉だった

 大林監督がこの言葉を使うにあたりイメージした人物がいる。それは、大林監督の父・義彦氏だ。義彦氏は医大の外科教室で研究をしていたが、1939年、30歳のときに戦場へ向かうことになる。大林監督は父が復員した後も戦場の思い出を聞くことはなかったというが、軍医として中国、マレー半島からジャワ島へと赴いた先で見たものが何であったかは想像するにあまりある。
 父は晩年、戦場で起きたことを手記に残しており、最近その手記が見つかった。前述ドキュメンタリーでは、1945年10月29日、復員して尾道に帰ってきた日のことがこのように綴られていたと紹介している。
〈やっと戦時生活も終わった。これで自分で考え、自分の意思で生きていける。本当の人生がまた帰って来た〉
 妻と子を日本に残し、研究者としての仕事も中断させられ、6年間もの歳月を軍医としての生活に費やさざるを得なかった父の無念の思いを、ドキュメンタリーのなかで大林監督はこのように語る。
「父のことを考えたら、人生丸ごと消耗品だったんだよね。精神の自由もなかった。なんという人生だろうね。でも、そのなかをきっちり青春があって、生きた。親父たちも自らを納得させていったんだろうと」

大林監督が語った敗戦時の記憶 母親から「この短刀で僕を殺して自分も死ぬ」と…
 戦争によって人生を消耗させられたのは父だけではない。1938年生まれの大林監督も同様に戦争で人生を大きく狂わされた。もしかしたら、戦後すぐに彼は死んでいたかもしれなかったのだ。
 九死に一生を得たのは、終戦後すぐ、尾道に進駐軍がやってくるという噂が立ったときのこと。ドキュメンタリーでは、その当時住んでいた大林監督の生家を訪れているのだが、寝室に使っていた部屋に入ると大林監督はこんな思い出を語り出した。
「いつもなら布団が敷いてあるんだけれども、それがなくて、ここに座布団があって、こっちに座布団があって、スーツをきちんと着た母親と僕が座って。なぜかここにこれぐらいの短刀が置いてありましたよ。なにか子ども心に、より切実に、夜が明けたらアメリカやイギリスの兵隊さんがやって来て、僕らを取って食べるんだと。だから、その前に母親はこの短刀で僕を殺して自分も死ぬんだと。そう納得してね。父親はまだ戦地から帰ってませんでしたから、『お父さんのお帰りを待てんけどね』と言って母親と話をした」
 結局、この心中は未遂に終わったのだが、その夜のことについて母に話すことはできなかったという。

「戦争中のことはね、親子といえども、というか、親子だからこそ探り合わない。探り合えばきっと傷つき合うんだということを子ども心に真剣に僕たちは承知していましたよ。そりゃだって我が子を殺めて自分も死ぬなんてことを母が決意していたってことをどうして子どもの僕が問い返せますか?
 ようするに、この日の鮮烈な記憶、そして安倍政権下で進む日本の歩みに憤りを覚えたことが、戦争をテーマにした映画を撮り続けさせたのだ。
 周知のように、『花筐/HANAGATAMI』のクランクイン直前、大林監督は肺がんが発見さ「余命3カ月」と宣告を受ける。だが、大林監督は当時、「文藝春秋」2016年9月号にこんな随筆をよせている。
〈日本は復興・発展。高度経済成長期、僕は大人になった。すると今度は、日本人が自らの手で、日本を壊し始める。僕は町興しならぬ町守り映画を作る事こそが、「敗戦少年」の責務であると。斯くして「3・11」を経て、明治維新以降の日本の「戦争」と「平和」を見直す「古里映画」を作り続けております。敗戦後七十年は「平和〇年」の筈だった。然し今、この日本は!?
 人ヲ殺シテ死ネヨトテ、二十四マデヲソダテシヤ。
 僕は七十八まで生き延びた。まだまだ、死ねぬ〉

 そして、大林監督はがんとつきあいながら、『花筐/HANAGATAMI』を完成させたばかりか、その後も、映画を撮り続けた。それが最新作である『海辺の映画館』だ。
 前掲したNHKのドキュメンタリーのなかで大林監督は「戦争」についてこのように語っている。
みんながしっかりと怯えてほしい。大変なことになってきている。過剰に怖がらせているように思われるかもしれませんが、過剰に怯えていたほうが間違いないと僕は思う。それが、実際に怯えてきた世代の役割だろうと思うので、敢えて言いますけどね。怯えなきゃいかん。戦争というものに対して。本当に
 
 戦争の恐ろしさをしっかりと認識し、その凄惨さに怯えること。そして、その恐怖を乗り越えたら、今度は「平和を信じる力」を身につけること。大林監督の残したメッセージを私たちはしっかりかみしめる必要がある。 (伊勢崎馨)