反戦平和を訴え続けた映画監督の大林宣彦さんが、肺がんのため4月10日夜に82歳で亡くなりました。
新潟日報が、長岡空襲と慰霊の花火をテーマにした映画「この空の花-長岡花火物語」(12年 戦争3部作の第一作)を作った大林宣彦さんの死を悼む社説「大林監督と花火 長岡から伝えた反戦平和」を掲げました。
また中國新聞は、地元・尾道市生まれの大林宣彦さんの死を悼んで社説「大林宣彦監督死去 反戦の思い受け継ごう」を掲げました。
二つの社説を紹介します。
(関連記事)
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社説 大林監督と花火 長岡から伝えた反戦平和
新潟日報 2020/04/14
反戦平和を訴え続け、本県とも強い絆で結ばれていた映画監督の大林宣彦さんが82歳で亡くなった。平和を強く希求したその心を、これからも次の世代へつなげたい。
大林さんと本県の関わりを深めたのは、長岡空襲と慰霊の花火をテーマにした映画「この空の花-長岡花火物語」(2012年)だ。
「この空の花」は、長岡花火を実際に見た大林さんが、慰霊の花火であることに感動した体験が製作につながった。
空から爆弾を落とし無差別で殺傷する空襲の愚かさを訴える一方、「祈りの花」として、空に打ち上げる花火に鎮魂のメッセージを託す長岡の人々の熱い思いを映像に込めた。
中越地震、東日本大震災といった災害のエピソードも盛り込んだ。戦争や災害からの復興も重要なテーマといえる。
広島県尾道市出身の大林さんは、幼少期の戦争体験を基に骨太なメッセージを発信した。
戦争と平和を題材にした作品で反戦への思いを打ち出したのは、長岡で空襲を語り継ぐ人と出会い、影響を受けたからという指摘がある。
戦争の影がちらつく中、懸命に生き抜こうとした若者の群像劇「花筐 HANAGATAMI」(17年)は、がんで闘病しながら撮影した。
遺作となった最新作「海辺の映画館 キネマの玉手箱」は、広島や沖縄の史実を取り込んだ戦争の歴史を巡る物語だ。
大林さんは生まれ故郷を題材にした「転校生」など尾道3部作で人気を確立した。
戦後の経済成長で失われつつあった昔ながらの風景を写した自身の作品を「町まもり」映画と名付けた。地域の再発見につながるからだ。
「この空の花」でも日本の原風景ともいえる旧山古志村の美しい棚田などが写し込まれ、地域の魅力を伝えた。町まもり映画的な側面も見える。
この映画では、地域に長い間根付く行事が、その土地に生きる住民の誇りになっていることにも気付かされる。
新型コロナウイルスの終息が見通せない中、長岡市は10日、今年8月の長岡まつり大花火大会を戦後初めて中止すると苦渋の決断をした。大林さんは同じ日に亡くなった。
大林さんは、以前に長岡で慰霊の花火「白菊」を観賞した時に「いつまでも像が残るのがいい。思いがこもっているから、見え方が違う」と語った。
映画化を提案した市民には「長岡は花火で、僕は映画で、一緒に平和をつくろう」と語り、握手を交わしたという。
今年は戦後75年という節目の年でもある。「この空の花」のラストには、エンドマークは付けず未来につながる、との字幕が流れる。平和を願う思い、行動に終わりはないとの伝言でもあろう。
ウイルス禍が終息し、来年は長岡花火が夜空に咲くことを願う。大林さんもきっと待ち焦がれていることだろう。
社説 大林宣彦監督死去 反戦の思い受け継ごう
中國新聞 2020/4/14
尾道市生まれの大林宣彦監督が82歳で旅立った。映画会社育ちの監督とは違う遊び心のある発想と、斬新な映像表現で多くの名作を生んだ。本人も「アマチュアの映画作家」という肩書を好んで使っていた。
遺作となった「海辺の映画館―キネマの玉手箱」は、今月10日の公開予定が新型コロナウイルスの影響で先送りとなった。末期の肺がんと闘いながら制作し、戦争や原爆に反対するメッセージを盛り込んでいたという。封切りが待ち遠しい。
「映画の力で戦争をなくすよう」託された映画の師という黒沢明監督たちと今ごろ、楽しく語り合っていると信じたい。
大林さんは1960年代にテレビコマーシャルの世界で活動を始めて以来およそ半世紀にわたり、一線で活躍し続けた。
高度成長期には、ハリウッド俳優を起用した化粧品「マンダム」や、三浦友和さんと山口百恵さんが初共演したお菓子など今なお記憶に残るCMを幾つも手掛けた。才能が認められ、まな娘のアイデアを原案にした「HOUSE ハウス」で商業映画デビュー。話題を呼んだ実験的映像を見れば「映像の魔術師」との評価もうなずけよう。
生まれ故郷にとっては全国に魅力を発信してくれた恩人でもある。「転校生」「時をかける少女」など尾道を舞台にした3部作は熱心なファンに支持され、ロケ地を訪れる「聖地巡り」の人々を街に呼び込んだ。
アイドルを起用した娯楽作で青春の輝きや悩みをスクリーンに投じた。一方で、芸術性の高い映画や、各地域の魅力にスポットを当てたものまで幅広いテーマで作り続けてきた。
作品の背後に見え隠れしていた戦争や原爆と正面から向き合い始めたのは、新潟県長岡市の空襲を取り上げた「この空の花―長岡花火物語」だった。晩年を飾った、戦争反対を訴える3部作の1作目となった。
長岡市では毎年8月初め、米軍による空襲の犠牲者追悼のため花火を打ち上げている。「空襲を思い出したくない人もいるが、次代に伝えないと再び同じ過ちを繰り返してしまう」。そんな思いを聞いたのが、制作のきっかけになったようだ。
シナリオができたころ、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故が発生。核の被害や戦争を伝えていく使命感を一層かき立てられたに違いない。
「映画は風化しないジャーナリズム」が持論だった。「眉をひそめたいほど重いテーマや忘れた方が楽だという悲しくつらい出来事も映画で語ると不思議で面白い。だからいつまでも考えられる」。6年前に本紙のインタビューにそう答えている。
7歳のころ、軍医だった父と広島を訪れ、路面電車の窓から後の原爆ドームの丸い屋根を見た。文明社会の象徴だと思ったが、2週間後に原爆が落とされ破壊の象徴になった。そんな体験から、核のボタンが押されれば人類が滅亡しかねない現状に強い危機感があったのだろう。
戦争と原爆をテーマにした遺作「海辺の映画館」もその表れではないか。「自分の知る戦争を未来に伝えたいからつくる」と次世代に希望を託していた。
「映画で過去は変えられないが、未来は変えられる」。映画の力を信じ続けた大林さんの思いを受け継いでいきたい。