2020年4月25日土曜日

PCR検査不足を隠すための「3密禁止」と「外出自粛」(世に倦む日々)

 既にPCR検査抑制の方針が間違いであることは明らかになっているのですが、日本ではいまだに検査が事実上抑制されています。その一方でTV等では「外出を8割削減」することが絶対条件であると連日強調されています。
 日本は検査数が桁外れに少ないため、実際の感染者は公表されている数の堅く見ても10倍はいると見られています。そうであればやはり「8割削減」するしかないということになってしまいますが、国民にそれを強調することで検査抑制の非を誤魔化すことでは事態は解決しません。
 当初は2週間の間、「3密」を避けるために外出を自粛し休業等をすれば感染が抑制に向かうので、その後2週間を掛けてその効果を確認(分析)して終了できるというニュアンスでスタートしましたが、本当に目論見通りに行くかは疑問です。
 そもそも10倍以上の暗数があるというのに、公表された数字だけで傾向を解析できるのでしょうか。感染者の数は検査数の絞り込み具合でいくらでも調整できます。
 こんな風に収拾出来ない事態に陥ったのはすべてPCR検査抑制が原因であって、それに苛まれているのがまずは医療関係者たちであり国民です。

 政府からも専門家会議のメンバーからも一向に反省の言は聞かれませんが、彼らの罪が極めて大きいことは余りにも明らかです。
 ブログ:「世に倦む日々」の記事を紹介します。
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PCR検査を隠すための「3密禁止」と「外出自粛」 - 西浦少佐の精神形態 
世に倦む日々 2020-04-23
この一週間ほど、新規の感染者の数が減っている。これは決して自粛等の対策の効果が現れた結果ではなく、市中感染の実態を反映した数字の変化でもない。簡単に言えば、検査数を絞り込んでいるからであり、検査数を減らしているから陽性者の増加ペースも落ちているだけだ。原因は二つある。第一に、患者を収容する病院と宿泊施設の空きが不足していて、当局が収容先の確保と調整のため検査を抑制しているからであり、第二に、検査業務を担う保健所と接触者外来と衛生研がパンクしていて、検査作業の能力が落ちているからである。PCR検査を実務するのは、①電話窓口である保健所(相談センター)と、②検体採取を行う指定医療機関(接触者外来)と、③検出作業する衛生研究所のフローだ。市中感染の増加によって作業量がオーバーフローし、行政保健師・医師・検査技師が疲弊しきっている。この二つの理由により検査数を増やせず、そのため新規の感染者数も増えない。 

検査数が増えないため、見かけ上は感染全体が減少する傾向を示しているが、実際には市中感染は広がっていて、いわば感染濃度の凝縮が進んでいる状況にある。ネットの中で、日本の感染者数の計上と推移について、「リボ払い」という諧謔の比喩があったが、言い得て妙の表現だと言える。感染者が増えて市中で溜まり続けながら、検査キャパの限界が感染者数の数値を押さえ込んでグラフを平衡にさせている。こうなると次はどうなるかというと、20日に報道された川崎の40代の男性の自宅死のようなケースが頻発する事態になる。発症しながら、ずっと相談センターに検査を拒絶され、自宅に押し込められて日数を費やし、軽症から中等症に、さらに重症化して命を落とす者が多発する進行になる。川崎の例は運良くマスコミに拾われた例で、氷山の一角だろう。救急搬送されて死亡しても、患者全員にPCR検査が行われているわけではない。PCR検査されなければ、単に「疑い例」の肺炎患者に過ぎず、24時間以内に火葬される。

7日に緊急事態宣言が出されて以降、政府・専門家会議の「対策」は、国民に対して3密の禁止をアナウンスして外出の自粛を要請することに集中した。3密排除と外出自粛。そしてマスコミは、毎日のように渋谷や梅田など大都市の繁華街の映像を出し、人出がどれくらい減ったかを示し、もっと努力せよと執拗に国民の尻を叩く報道に終始した。現在もその政策が続いている。外出制限が感染拡大の防止に効果があることは当然だが、ここで想起する必要があるのは、韓国は都市封鎖も外出制限も行っておらず、そうした対策なしにコロナ蔓延の制圧に成功したという事実である。韓国で注力したのは、徹底的な検査と隔離だった。感染症対策の教科書のオペレーションの遂行だった。80%の外出制限の達成によって感染拡大を止めたわけではない。私は、今の日本の「対策」に根本的な不信感を持っている。「対策」を立案し唱導している専門家会議を信用しない。GW明けに「対策」が奏功するとは思わず、医療崩壊が防げるとも思っていない。

本来、コロナ対策で中核に据えなくていけないのは、PCR検査の増大と普及である。それは、感染蔓延期が進んだ4月現在もそうだし、市中感染が広がった3月もそうだし、市中感染が始まった2月もそうだった。PCR検査こそがコロナと戦う主力の武器であり、医療機関も、われわれ国民も、装備して身をガードする防衛アセットだった。感染拡大を有効に止める要諦は、PCR検査キットを大量に供給し、PCR検査の機会提供を大幅に増やし、陽性者を迅速に市民社会空間から隔離することである。テドロスの言うとおり、キーは「検査、検査、検査」なのだ。ところが4月になっても、日本ではPCR検査がコロナ対策の中軸に定置しない。マスコミでは、舘田一博などが未だにPCR検査抑制論を垂れていて、PCR検査論争を収束させていない。私は穿った見方をしていて、「8割削減」を強調する行動提起は、PCR検査を前面から隠すための煙幕装置であり、周到なスリカエ工作ではないかと疑っている。PCR検査を主役にしないための巧妙で狡猾な仕掛けだ。

「3密禁止」がキーワードになり、「8割削減」が対策の柱になり、国民総動員的なスローガンになったのは、4月からであり、その政策を主導した理論は西浦博の数理モデルである。安倍晋三が7日の緊急事態宣言の会見の席で「人との接触を7割から8割削減すること」を専門家会議の見解として言い、その後、西浦博本人が、「7割と言った覚えはない」と直接に会見を開いて不満を述べ、先週(4/13-4/17)はコロナ対策の報道と世論の中心的キャラクターとなった。西浦博の持論である「8割削減」策の基礎となる基本再生産数「2.5」が、専門家会議の報告書で「2.0」に改竄された件が話題になったが、おそらく犯人は押谷仁だろう。西浦博は政府の対策チーム全体のキーパーソンだが、専門家会議には入っておらず、組織の上は押谷仁の部下の位置づけにある。参謀本部の比喩で言えば、43歳の西浦博は少佐クラス(辻政信)であり、大佐で作戦課長の61歳の押谷仁のスタッフという序列になる。

「8割おじさん」という、押谷仁が西浦博を呼ぶ表現も、半ば揶揄を含みつつ、何やら、かわいい部下にじゃれて戯れる身内関係の気配が隠れ見え、いかにも旧日本軍の高級参謀の上下の馴れ合い関係を漂わせて不気味な感じがする。要するに、おまえ、まだまだ若いなと言いたいのだろうし、こういう政府組織で政策に携わるときは、上の権力者の意向を汲んで上手に案配を調節できる官僚の立ち回りができなくちゃいかんぞと、そう西浦博を窘めているように見える。そのとき、微妙な摩擦が生じた西浦博と押谷仁の間に入って、否、逆に「8割」だと厳しく言った方がいい、40万人死ぬぞと国民を脅してやれと、そうサジェスチョンして西浦博に単独会見を開かせたのは、参謀総長の尾身茂だろう。尾身茂こそ煮ても焼いても食えない古狸の妖怪だ。この時点から押谷仁は背後に退き、若い西浦博が事実上の作戦課長になった。昨日(22日)の安倍晋三の発言では、「7-8割」の曖昧な表現ではなく「8割削減」となっている。

ところが、数理モデルにエンスージアスティック熱狂的に即いていたはずの西浦博も、昨日(22日)の専門家会議の会見では、すっかり君子豹変して文系的な茶坊主官僚に化けてしまい、根拠となるエビデンスも示さず、「多かれ少なかれ向こう1年間はこの流行と付き合って行かないといけない」などと曖昧な口上を垂れ、その非科学的態度を岡田晴恵に手厳しく批判される一幕があった。西浦博の数理モデルなるものが、どこまで正しい分析と予測の道具なのか、判然としない。が、ツイート内容の奇矯さには常識的理解を超えた部分がある。本人の客観的立場と求められる責任倫理の資質的前提から鑑みて、あまりにもアンバランスかつ情緒不安定であり、人物像を正確に整理して納得することが難しい。その経歴と風貌からは、20年前、リュックを背負って土日に秋葉原のLAOXザ・コンピュータ館の界隈を徘徊していた理工系オタクの若者たちが思い浮かぶ。また、率直に、丸山真男の『軍国支配者の精神形態』に描かれた、どれかの類型とのアナロジー類似に回収されそうな予感を否めない。

丸山真男の慧眼と天才を思い、その政治学的分析の普遍性と不滅の説得力を思う。永遠にヒントを与え続ける。私には、日本のエースである西浦博 - あるいは押谷仁や尾身茂 - を鍾南山の知力と胆力と同列視することは到底できず、科学者としての理性と倫理のレベルを比較して、相当な乖離があると考えざるを得ない。また、米国のファウチやデボラ・バークスと比較しても、明らかに見劣りして幼稚で粗雑で信頼感がない。これが今の日本の現実なのだと思うし、(司馬遼太郎が予言した)日本の結末も見えてきて、覚悟を決めなければならないと思う。