2023年3月16日木曜日

大江健三郎さんを悼む  澤藤統一郎氏 / 世に倦む日々

 「九条の会」の呼びかけ人である大江健三郎氏が今月3日、老衰のため亡くなりました。

 「九条の会」は9人の呼びかけ人で発足しましたが、健在のメンバーは澤地久枝さんお一人になりました。
 澤藤統一郎氏と世に倦む日々氏の追悼の記事を紹介します。
 文中の着色強調文字等は原文に拠っています。
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「本郷・湯島九条の会」街頭宣伝で、大江健三郎さんを悼む。
                   澤藤統一郎の憲法日記 2023年3月14日
 本日の朝刊各紙に、大江健三郎さんの死去が報じられています。亡くなられたのは3月3日のこと、享年88でした。「戦後文学の旗手」「反戦平和を訴え続けた生涯」などと紹介されています。謹んで、ご冥福をお祈りいたします。
 彼は、2004年6月、日本国憲法を守る「九条の会」の結成に参画しています。加藤周一や井上ひさし、奥平康弘、鶴見俊輔らとともに、その活動の中心メンバーとして活動しました。東日本大震災以後は反原発の運動にも参加しています。
 九条の会は、上命下服とは無縁の市民運動です。行動の統一方針などはありません。まったくの自発性に支えられて、平和・日本国憲法・第九条を大切に思う人々が寄り合って名乗りさえすればよいのです。全国の地域に、職場に、業界に、学園に、学界に、7500もの「九条の会」が、それぞれのスタイルで結成され、活動を続けています。
 私たち「本郷・湯島9条の会」も10年前の春に、そのようにして結成され、細々ながらも、途切れなく活動してまいりました。
 2004年に9人の呼びかけで始まった「九条の会」運動。呼びかけ人9人の内、存命なのは澤地久枝さん、お一人となりました。淋しいことではあります。しかし、各地の「九条の会」は、呼びかけ人9人から「指令」も「指導」も受けていたわけではありません。呼びかけの理念に共鳴して、平和・憲法・九条を擁護する自発的な運動を続けていたのですから、大江さんが亡くなっても、九条の会運動がなくなることも、衰退することもありません。

 「本郷・湯島9条の会」も、今後とも、自発的な運動を継続してまいります。ご支援をよろしくお願いいたします。
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なお、「九条の会」呼びかけ人・9人のプロフィールは下記のとおり。
井上ひさし 1934~2010年
劇作、小説の両方で大活躍。日本ペンクラブ第14代会長。
梅原猛 1925~2019年
古代史や万葉集の研究から築いた「梅原日本学」で著名。
大江健三郎 1935~2023年
核時代や民衆の歴史を想像力を駆使して小説で描いてきた。ノーベル文学賞受賞。
奥平康弘 1929~2015年。
「表現の自由」研究の第一人者。東京大学名誉教授。
小田実 1932~2007年。
ベトナム反戦などで活躍。地元・兵庫で震災被災者の個人補償求め運動。
加藤周一 1919~2008年。
東西文化に通じた旺盛な評論活動を展開。医師でもあった。
澤地久枝 1930年生まれ。
戦争による女性の悲劇を次々発掘。エッセーも。
鶴見俊輔 1922~2015年
『思想の科学』を主導。日常性に依拠した柔軟な思想を展開。
三木睦子 1917~2012年。
故三木武夫元首相夫人。アジア婦人友好会会長を務めるなど国際交流活動で活躍。
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 以下は、「九条の会」発足時に採択されたアピール。
              「九条の会」アピール

 日本国憲法は、いま、大きな試練にさらされています。
 ヒロシマ・ナガサキの原爆にいたる残虐な兵器によって、五千万を越える人命を奪った第二次世界大戦。この戦争から、世界の市民は、国際紛争の解決のためであっても、武力を使うことを選択肢にすべきではないという教訓を導きだしました。
 侵略戦争をしつづけることで、この戦争に多大な責任を負った日本は、戦争放棄と戦力を持たないことを規定した九条を含む憲法を制定し、こうした世界の市民の意思を実現しようと決心しました。
 しかるに憲法制定から半世紀以上を経たいま、九条を中心に日本国憲法を「改正」しようとする動きが、かつてない規模と強さで台頭しています。その意図は、日本を、アメリカに従って「戦争をする国」に変えるところにあります。そのために、集団的自衛権の容認、自衛隊の海外派兵と武力の行使など、憲法上の拘束を実際上破ってきています。また、非核三原則や武器輸出の禁止などの重要施策を無きものにしようとしています。そして、子どもたちを「戦争をする国」を担う者にするために、教育基本法をも変えようとしています。これは、日本国憲法が実現しようとしてきた、武力によらない紛争解決をめざす国の在り方を根本的に転換し、軍事優先の国家へ向かう道を歩むものです。私たちは、この転換を許すことはできません。
 アメリカのイラク攻撃と占領の泥沼状態は、紛争の武力による解決が、いかに非現実的であるかを、日々明らかにしています。なにより武力の行使は、その国と地域の民衆の生活と幸福を奪うことでしかありません。1990年代以降の地域紛争への大国による軍事介入も、紛争の有効な解決にはつながりませんでした。だからこそ、東南アジアやヨーロッパ等では、紛争を、外交と話し合いによって解決するための、地域的枠組みを作る努力が強められています。
 20世紀の教訓をふまえ、21世紀の進路が問われているいま、あらためて憲法九条を外交の基本にすえることの大切さがはっきりしてきています。相手国が歓迎しない自衛隊の派兵を「国際貢献」などと言うのは、思い上がりでしかありません
 憲法九条に基づき、アジアをはじめとする諸国民との友好と協力関係を発展させ、アメリカとの軍事同盟だけを優先する外交を転換し、世界の歴史の流れに、自主性を発揮して現実的にかかわっていくことが求められています。憲法九条をもつこの国だからこそ、相手国の立場を尊重した、平和的外交と、経済、文化、科学技術などの面からの協力ができるのです。
 私たちは、平和を求める世界の市民と手をつなぐために、あらためて憲法九条を激動する世界に輝かせたいと考えます。そのためには、この国の主権者である国民一人ひとりが、九条を持つ日本国憲法を、自分のものとして選び直し、日々行使していくことが必要です。それは、国の未来の在り方に対する、主権者の責任です。日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、「改憲」のくわだてを阻むため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めることを訴えます
                               2004年6月10日
井上 ひさし(作家)   梅原 猛(哲学者)   大江 健三郎(作家)
奥平 康弘(憲法研究者) 小田 実(作家)    加藤 周一(評論家)
澤地 久枝(作家)    鶴見 俊輔(哲学者)  三木 睦子(国連婦人会)



大江健三郎の死を悼む - 戦後民主主義を純粋に引き継いで実践した指導者
                       世に倦む日日 2023年3月15日
2013年11月、秘密保護法案の反対デモに立ち寄るべく銀杏並木の国会裏に出かけたら、途中、官邸前交差点の歩道上に大江健三郎の姿があった。昼間、何人かの市民と一緒にそこに佇み、本を読みながら時間を潰すような感じで立っていた。その場所の人数は疎らで、デモの群衆が幟を立てて集会していたのは衆院第二議員会館前だったから、そこは数人だけが静かに抗議の時間を送る一角だった。あれ、大江健三郎が来ている。テレビで見る顔と同じだ。歩く足を止め、数メートルの間隔で凝視していたら、その視線に気づいて大江健三郎は反応を返した。こちらに顔を上げ、少し照れた表情を見せ、くるっと後ろを向いて背中を見せた。私は横断歩道を渡ってデモの方に進んだが、何かとても幸運な出来事に遭遇した気分になり、日記帳代わりのツイッターに報告を上げた。(写真は東京新聞)

大江健三郎が死んだ。88歳だった。そんな高齢だったのかと戸惑う感じがする。もう少し元気で長生きして欲しかった。まだ数年は言論活動してもらえると期待していた。そういう残念な気持ちを正直禁じ得ない。ここ数年マスコミに出る場面がなく、体調が不全なのかなと気になっていたけれど、もう88歳になっていたのだ。大江健三郎は、9条の会の発起人の中でいちばん若かった。政治に対して精力的で、9人の知識人の中でフロントに立ち、会の代表格として活発に発言していたから、実年齢よりも若く感じてしまい、80代前半くらいに思っていた。昨年、安保3文書の閣議決定があり、防衛費倍増とトマホーク配備の決定があり、慌ただしく、何の抵抗もなく軍拡政策が進められて行く中、大江健三郎の言葉が欲しかった。何も発言が出ないのは、それだけ健康状態が悪いのだろうと想像するしかなかった。

9条の会の9人の知識人。大江健三郎、加藤周一、鶴見俊輔、小田実、井上ひさし、奥平康弘、梅原猛、澤地久枝、三木睦子。生き残っていたのは大江健三郎と澤地久枝だけ。澤地久枝は93歳で、大江健三郎の方が5歳も若い。大江健三郎に代わる者がいないから、この死は私にとって痛恨で断腸の思いである。「早すぎる残念な死」だ。今、台湾有事の戦争を止めるべく動きを起こさないといけない。大江健三郎にはその先頭で言葉を発してもらいたかった。最後の力をふりしぼり、9条平和主義のメッセージを絶唱してもらいたかった。菅原文太のように、われわれの心の中に永遠に刻まれる、遺言となる魂魄の言葉を残して欲しかった。大江健三郎にはその使命があったし、本人もまた、最後まで9条を守る現役戦士たるを自覚していたはずだ。自らに代わる者がいない事実を承知し、カリスマ的リーダーの責任を理解していたと思う。

9人の中で最も若い大江健三郎は、9人の中で戦後民主主義に最もピュアに即いた人だった。迷いが全くなく、個性的な思想の屈折や遍歴の回路がなく、まっすぐに丸山真男の戦後民主主義にコミットした人だった。それを堂々と語って説いていた。あるときのテレビ番組で、司馬遼太郎の「明治国家」を引き合いに出し、「司馬遼太郎さんの『明治国家』と同じ意義の重さで丸山真男さんの『戦後国家』がある」と言い、戦後日本を積極的に称揚していた姿が印象に残っている。戦後民主主義の直系の申し子であり、自らそれを自認し自負していた。丸山真男の戦後民主主義とは、民主主義の永久革命であり、支配される者(demos)が支配する(kratos)逆説のダイナミックスを不断に実現する過程と運動のことである。大江健三郎はその政治理念を信念として持っていた。信奉し実践していた。丸山真男の弟子だった。筑紫哲也と同年齢。この世代は本当にこの精神の芯が固い。

だから、常にデモに出たのである。「市民はデモするしかない」と脱原発運動の場面で説いていた。2013年11月に官邸前で見た光景は、大江健三郎のアジテーションがうわべの言葉でなく、自ら実践していた事実を証明するもので、流石だなと感心させられたし、その姿に大いに勇気づけられた。大江健三郎には知識人の基準と規範があり、それに依拠することに躊躇がなかった。戦後日本の偉大な先輩たちの行動に続くことに自信を持っていた。例えば、文化勲章の辞退もそうである。巷の右翼はこの一件に執拗に難癖をつけて絡んでくるけれど、本人の理由説明の口上はどうあれ、この行動は丸山真男のそれを真似たものだ。戦後民主主義の知性の系譜に繋がる者として、標準のコードとプロトコルに逸脱することなく準拠したのだった。文化勲章辞退こそ大江健三郎にとって最高の名誉であり、男子の本懐だっただろう。

大江健三郎はブレなかった。言葉と行動が真っすぐで信頼感があった。本当に頼れる存在だった。福島第一原発事故の後の2011年9月に始まった「さようなら原発1000万人アクション」でも、呼びかけ人となった大江健三郎は常に横断幕を持って先頭を歩き、集会の演壇でスピーチを発する姿があった。その映像がNHKの7時のニュースで紹介された。脱原発デモの看板だった。今から考えると、2012年6月からの反原連(しばき隊)の官邸前デモに人が集まったのも、それに先行して「さようなら原発」の活動と存在があり、指導者の大江健三郎が市民にデモ参加を呼びかけた説得が奏功し浸透していた点が大きい。大江健三郎は熱心に純粋に市民にデモを訴えた。小田実が健在であればやることを76歳の大江健三郎がやっていた。9条の会の設立が2004年で69歳のとき。そこから7年経った2011年、76歳の大江健三郎は見た目も変わらず若かった。

9条の会を立ち上げたときの会見で、大江健三郎は教育基本法について次のように語っている。抜粋して嚙みしめたい。改悪される前の教育基本法のことである。

私は教育基本法をだいたいそらで言えますが、本当にいい文章なんです、内容があります。悲惨な戦争をしてアジアに悲惨を撒き散らして、世界的にも断絶して、日本国内にも大きな損害をもたらした。こういう段階で、大人が子どもたちに「私たちはこういう教育をしようとしているんです」と子どもに本気で訴えかけている言葉です、教育基本法の文体は。法律の中でこういういい言葉を使っている法律を私はあまり知りません。これは憲法の前文と9条にもつながっています。憲法全体の非常に優れたエッセンスを取り出して、しかも分かりやすい言葉でみんなに伝えようとしている。 

伝えようとする自分たちは、戦争に責任のあった人間として、日本を再建する人間として、それに携わる人間として、父親として教師として、「われわれは、こうしようとしてるんだ」と呼びかけているんです。世界に向かって開いていく教育というものが基本的な構想です。たとえば、われわれが平和と真理を目指す教育をするとか、個性というものを表現しながらしかも普遍的であるものを文化として作りたいと言っているのは、日本人が世界に向かって開こうとしているわけです。その勢い、その方向づけが教育基本法の一番いいところで、そして憲法につながるところだと思います。

この言葉もとてもいい。13日にNHKのニュースで放送された、2015年のインタビューの言葉もいい。平和憲法へのコミットを語っていた。今、平和憲法という単語を使う者がいない。マスコミの論者にもいないし、ネットの中のブロガーの記事や匿名者の投稿の中にも見ない。全くと言っていいほど見ない。それなので、私はなるべく平和憲法という語を記事内に挿入するよう心掛けている。戦後民主主義に即いているのだという証明と主張の意味で、その態度をとっている。客観的に眺めて、平和憲法の語を自己と一体化して強く押し出す者として、私は最も若いだろう。同年齢でもほとんど見ないし、若い世代では皆無の状況だ。この20年ほどずっとそうだった。あと何年、平和憲法という語を文中に使って意味がある時間が続くか分からない。もう使えなくなるかもしれない。過去形になるかもしれない。教育基本法についても、それを言うときは旧教育基本法と呼ばなくてはいけなくなった。

中村哲は大江健三郎より11歳若かった。生きていれば77歳。おそらく、大江健三郎の後は中村哲が戦後民主主義のリーダーの座をバトンタッチしていたと思われる。中村哲には大江健三郎に匹敵する十分なカリスマ性が備わっていた。言葉に力があった。聞く者を感動させた。理想を信じて進めと励ましてくれた。だが、もういない。二人ともいなくなった。誰もいなくなった。戦後民主主義の言葉を、平和憲法の理念を、その重さと響きを正しく伝えてくれ、われわれを説得し、よく教化し、勇気を与えてくれる指導者がいなくなった。好きだった内橋克人も逝った。あと一人、91歳の山田洋次がいるけれど、他には誰もいなくなった。一人一人と巨星が堕ちるたび、空が暗くなり、地上が暗黒さを増す。日常に割り込んでくる、心を苛ませる訃報。死んだ人を送る言葉を探し記し、胸の奥で重い息を溜めながら、自分の残りの時間が減って行く。砂時計のように。