2023年3月19日日曜日

19- 「誤解を与えたとすれば」などの〝モヤモヤ政治家表現″を飯間浩明氏に聞く

 FRIDAYデジタルに「『誤解を与えたとすれば』などの〝モヤモヤ政治家表現″を飯間浩明氏に聞く」という興味深い記事が載りました。
 レポーターは出版社、広告制作会社勤務の経験を持つフリーライター田幸和歌子氏で、取材依頼を受けた『三省堂国語辞典』の編集委員飯間浩明氏国会会議録の調査を基に解説しています。その意味で大変な労作です。
 原文では、飯間浩明氏の発言=解説個所は全て太字で表示されていますが、10・5ポイントで太字にすると強調度合いが強くなりすぎるため、ここでは青字での強調にしました、
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「反省すべきは反省し」「誤解を与えたとすれば」…”モヤモヤ政治家表現”を言葉ハンター飯間氏に聞く
                   FRIDAYデジタル 2023/03/18
いったいいつから、どのように使われてきたのか
政治家がよく言う「反省すべきは反省し~」「誤解を与えたとすれば~」といった表現を聞くたび、モヤモヤしたことのある人は多いだろう。
「反省すべきは反省し~」は「反省するべきところがあるかないかはわからないが、仮にあったとしたら」程度の認識に聞こえる。また、「誤解を与えたとすれば~」の場合、あくまで真実ではなく「誤解」であり、言い方が適切でなかった可能性はあるにしろ、問題は「誤解」したほうにあるように聞こえる。
こうした今どきの政治家が逃げとして使いがちな言葉は、いったいいつから、どのように使われてきたのか。国語辞典編纂者で『三省堂国語辞典』の編集委員の飯間浩明氏に取材依頼をしたところ、国会会議録の調査を基に解説してくれた。

「反省すべきは反省し」:第2次安倍内閣で減少し、菅首相、岸田首相の時代になって再び増加
まず『反省すべきは反省し』についてですが、国会の会議録では1948年に最初に登場します。『反省すべきところは反省』『反省すべき点は反省』など、同類の言い回しを合計すると3例あります。その後、『反省すべきは』の類は増えて、70年代にひとつの山を迎えます
70年代では、たとえば73年・74年によく使われている。73年はオイルショックの年で、74年は田中角栄首相の金脈問題があり、その年の12月に田中内閣が総辞職している。田中首相自身もオイルショックに関し「反省すべきは反省しておる、転換すべきは転換する」と答弁している(74年1月24日)。
その後しばらく使用度数は減るが、90年代に入ってまた増えてくる。目立つのは阪神淡路大震災のあった95年。震災の直後から、村山富市首相が「今回の災害派遣の経験を踏まえ反省すべきところは謙虚に反省をし」(95年1月24日)などの言い回しを繰り返している。バブル崩壊後の状況についても、大蔵大臣が同様の表現を多用し、口癖になっている観もある。
ところで、意外なのは、最近はむしろ落ち着いてきていること。
『反省すべきは』の類が20例を超えていた年も多かったのですが、13年あたりからまた少なくなりました。ちょうど第2次安倍晋三内閣発足の時期です。安保法制が施行された16年は特に少なく、質問者の発言に2例出てくるだけです 
言い回しの頻度だけでは判断できないが、安倍内閣は「反省すべきは反省」しなかった時代のようにも見える。「反省すべきは反省し」というごまかしをやめたのか、それとも、「反省することはない」という開き直りの時代だったのか。
一方、菅義偉首相や岸田文雄首相の時代になると、再び「反省すべきは」の類が少し増えていると言う。 
解釈はお任せしますが、いずれにしろ、『反省すべきは』の類は昨日今日生まれた表現ではないということです。少なくとも国会会議録を見る限り、戦後には既に使われていて、とりわけ20世紀の終わりから今世紀にかけてよく使われるようになった言葉です。 
それだけ反省ポーズを見せたい場面が増えたとは言えるかもしれません。『反省しているのか』と聞かれれば、その答えは『反省している』『反省していない』の2択のはずですが、『反省すべきところがあれば』と仮定形にすると、反省しているのかいないのか言わなくて済む。そのことにみんなが気づいて、愛用されるに至ったのでしょう 











「誤解を与えたとすれば」⇒「あなたが誤解したのだ」
もう1つ、「誤解を与えたとすれば」は国会会議録では意外に多くないという(「誤解を与えたら」「誤解を与えましたならば」など、他の言い方は除く)。
初めて出てくるのが1954年で、次が1965年。戦後しばらくは『誤解を与えたとすれば』『誤解を与えたなら』という仮定形はあまり用いられていません」
ところが、こちらも70年代から目立つようになる。
「昔は使用例がゼロの年も多かったのが、70年代には4例使われている年もあります。94年と11年は5例で、特に目立ちますね。11年は東日本大震災の年。震災や原発事故に関する発言についての釈明として『誤解を与えたとすれば』を使う例も、複数含まれています。 
やはりこれも20世紀終わりから今世紀にかけて国会会議録で多くなった言い方です
これらの傾向から飯間氏はこんな分析をする。
『反省すべきは反省する』も『誤解を招いたとしたら』も仮定法になっていて、『反省すべき点があったら』『それはあなたが誤解したのであって』という言い逃れのような言い方です。 
『三省堂国語辞典』第八版では、『誤解』の項目にこんな解説を加えています。【『発言が誤解を招いたことをおわびします』という謝罪は、『あなたが誤解したのだ』という責任のがれにも使われる。発言を訂正したほうが誠意が伝わる】。 
また、『反省すべきは反省し』はまだ辞書に載せていませんが、常套句の一例として示すのもありかもしれませんね。 
他に便利に使われる言葉に『お騒がせして誠に申し訳ございません』もあります。一応謝罪の言葉なんですが、内々の問題で周囲を騒がせてしまった、という軽い感じを伴います。社会に深刻なダメージを与えた場合に使うと異様な感じがします。問題の本質に言及しないまま、世間を騒がせたことだけを謝罪するのは真摯な印象がないですね 
















「善処する」:具体的にどうしたいのか不明…
飯間氏が「言い逃れの歴史」の中で注目する言葉はまだある。「善処する」と「前向きに検討」だ。
『善処します』というのは積極的にはやらないという意味でも使われます。例えば1969年12月、佐藤栄作首相が日米繊維交渉でニクソン大統領に繊維の輸出規制について要請され、『善処します』と言ったという話があります。佐藤首相としては『まあ、できたら』程度の曖昧表現だったのに、英語に訳された際に『期待に沿うようにする』と積極的な意味になってしまい、アメリカが強気に出るようになった。公式には記録されていませんが、伝聞情報として語られています。 
『善処』については、朝日新聞コラムニストの入江徳郎のコメントもあります。役所の決まり文句を、『まだ報告は受けてない。事実とすれば大変だ。早速しらべて善処する』と、七五調でユーモラスに紹介しています(『労働文化』1965年11月号)。これは後によく引用されました
実は「善処」という言葉自体は江戸時代以前にも出てくるようだが、多く使われるようになったのは、大正時代から。
1924年(大正13年)、加藤高明首相が衆議院で、貴族院改革問題について『本問題に善処せんことを期する次第であります』と曖昧な言い回しで答弁したんです。具体的にどうしたいのか不明で、かなり批判されたようですね。 
加藤首相が使ったことがきっかけで、『善処』は急速に広まりました。『やります』『やりません』の2択ではなく、『善処します』と言えばごまかせるということをみんなが知ってしまった。それが現代に至るまで続いているんですね 

外務大臣などを歴任し、1924年に第24代内閣総理大臣に就任した加藤高明。「加藤首相が使ったことがきっかけで、『善処』は急速に広まりました」と飯間氏© FRIDAYデジタル
また、「前向きに検討」が国会会議録に登場するのは、1960年代の初め。以来、おおむね毎年増えていき、70年代になると、1年に200例を超えるほどになったと言う。 
『前向きに検討』は70年代が全盛でした。その後落ち着いて、年間50例から100例ぐらいで推移しています。70年代に乱用され、さすがに曖昧だと批判されたため、少し控えられるようになったのでしょう。 
『三省堂国辞典』でも、『前向き』の項目に『前向きに検討する』という例文を載せ、『政治家や役人の言いのがれの答弁によく使われる』と説明を添えています。1960年代に広まったこの表現は、批判に耐えて、現代でも相変わらず便利に使われているわけです 

批判されつつも、なぜ政治家は使い続けるのか 
それにしても、「誤解を与えたとしたら」も「反省すべきは反省し」も、SNSなどでは散々批判されている言葉なのに、なぜ政治家は使い続けるのだろうか。
批判されるデメリットと、責任を曖昧にできるメリットとを比較しているのでしょう。『反省すべきは反省し』などの言葉を駆使できる政治家は頭のいい人たちですから、批判される可能性を考えないはずはないんですよ。 
率直に『私はこの点について判断を誤りました』などと言うと、さっぱりした印象は与えますが、同時に責任を問われます。それは嫌だと考えて、多少批判は受けても曖昧表現に走ってしまうという心理はあるでしょう。 
曖昧表現で言い逃れられたという成功体験の蓄積があって、今の人々も、こうした表現をありがたく使い回ししているというわけですね
実際、政治家の中には「謝ったら負け」とする人が多数いる。今国会においても、論点ずらしのために延々とゴールポストを動かしている政治家がいるが、ネット上ではそうした絶対に謝らない人について「謝ったら死ぬ病」などという表現も存在している。
こうした「謝罪の曖昧表現」は今後も増える一方かもしれないと言いつつ、飯間氏は最後にこんな提案をしてくれた。
はっきりと謝罪した人を、もっと評価していいと思うんです。『自分はここまではよかったが、この点で誤った』と厳しく自己分析し、謝罪できる人は、言動に責任を持っているとも言える。その点では信頼が置けます。 
謝罪をマイナス評価にばかり評価すると、『あの政治家は謝罪した。だから引きずり下ろしてやる』となる。もちろん、間違った部分については責任を取るべきですが、その上で、社会が謝罪をプラスに評価することも必要です。『明確に謝罪することは、むしろ信頼につながる』という社会的な合意があれば、謝罪を決断する人も増えるでしょう。 
世界史を見ると、ドイツはナチス時代の誤りを謝罪して国際社会で一定の信頼を得ています。国際社会と言わず、身近なグループでも、『あの人はあの時はっきり謝ったんだ』と評価し、尊敬する社会になれば、曖昧な言葉で逃げる人々は少なくなると信じます

飯間 浩明 国語辞典編纂者。1967年、香川県高松市生まれ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。著書『辞書を編む』(光文社新書)、『日本語をもっとつかまえろ!』(絵・金井真紀、毎日新聞出版)、『日本語はこわくない』(PHP)など。

取材・文:田幸和歌子
1973年生まれ。出版社、広告制作会社勤務を経てフリーランスのライターに。週刊誌・月刊誌等で俳優などのインタビューを手掛けるほか、ドラマに関するコラムを様々な媒体で執筆中。主な著書に、『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)、『KinKi Kids おわりなき道』『Hey! Say! JUMP 9つのトビラが開くとき』(ともにアールズ出版)など。