2023年3月16日木曜日

16- ノーベル文学賞 大江健三郎さん 死去 88歳(NHK)

 NHKに、3日に亡くなった大江健三郎さんに関する長い記事が載りましたので紹介します。

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ノーベル文学賞 大江健三郎さん 死去 88歳
                    NHK NEWS WEB 2023年3月13日
現代日本を代表する小説家で、日本人として2人目のノーベル文学賞を受賞した、大江健三郎さんが、今月3日、老衰のため亡くなりました。88歳でした。
大江さんは、1935年、現在の愛媛県内子町で生まれ、東京大学在学中に発表した作品「奇妙な仕事」で注目を集めたあと、1958年には「飼育」で芥川賞を受賞しました。
そのあとも数々の文学賞を受賞し、新しい世代の作家として、戦後の日本文学界をリードしました。
そして1994年、川端康成に続いて、日本人としては2人目となるノーベル文学賞を受賞しました。
核兵器や平和の問題に対しても、文学者の立場から向き合い、広島で取材した被爆者や医師の姿を描いた「ヒロシマ・ノート」は、ベストセラーになりました。
また、憲法改正に反対する「九条の会」や、脱原発を訴えるデモの呼びかけ人として名を連ねるなど、社会問題に対しても積極的に取り組み、発言を続けてきました。
講談社によりますと、大江さんは今月3日未明、老衰のため亡くなったということです。88歳でした。
大江さんの次男「最期は穏やかに」
大江健三郎さんの次男は「最期は穏やかに息を引き取りました。生前のご厚情に感謝申し上げます」と話していました。
大江健三郎さん 生前に語った憲法と平和への思い
大江健三郎さんは、小説を書き始めた20代の頃から、「自分は戦後民主主義者である」として、自分自身の考え方の根底に日本国憲法があると発言してきました。
戦後70年を迎えた2015年10月のノーベル平和賞の発表日、大江さんは、東京の自宅でNHKのインタビューに応じ、憲法と平和への思いを語りました。
このうち、2004年に結成された憲法改正に反対する「九条の会」に発起人として加わった理由については、「平和憲法、民主主義の憲法というものを放棄し、改めて別の憲法をつくろうという動きが日本人の中にある。それを押しとどめ続けなければいけないと、その時考えました。それからずっと今現在に至るまで、その考え方を持っています」と語っていました。
そして、憲法9条がノーベル平和賞の候補として海外からも注目されたことについて、「私たちの憲法9条というものに非常に高い評価を与えてくださること、そして、日本がこの戦後70年、戦争をしなかったことが、どんなに大切かということを、はっきり認めようとする外国からの動きがあるということは、非常に心強いことだと思う。たとえ実際に賞をもらえなくても、人々の関心の中に日本の平和憲法というものがあるということだけでも、自分は非常に励まされることだと考えています」と語っていました。
谷川俊太郎さん「同じ世代で大きな仕事をした人 寂しいです」
大江健三郎さんと親交のあった詩人の谷川俊太郎さんは、「私は大江さんのデビュー作から読んでいました。私とは作風が違いますが、すごく勉強家で知識がたくさんある人でした。私と同じ世代の人で、大きな仕事をした人なので寂しいです」と話していました。
平野啓一郎さん「本当に残念 もっとお話ししたかった」
大江健三郎さんと親交のあった作家の平野啓一郎さんは、ツイッターに「本当に残念でなりません。大江さんが活躍されていた時代に、小説家としてデビューして、謦咳(けいがい)に接したことは、掛け替えのない経験でした。もっとお話ししたかったです」と投稿し、死を悼みました。
山田洋次さん「羅針盤を失ったような気持ち」
大江さんと親交があった映画監督の山田洋次さんは「物事を考える上で正しい指針を与えてくれる人がいなくなってしまった不安と悲しみに包まれています。加藤周一さんと大江健三郎さんの存在が長い間日本人にとってどれほど大切だったかを思いつつ、今大江さんを失うことが、現在のような混沌としたこの国の、さらに世界の状況にとって大きな損失だということを考えます。心ある日本人にとって、羅針盤を失ったような気持ちではないでしょうか」とコメントを出しました。
芥川賞受賞 佐藤厚志さん「計り知れないものを残してくれた」
ことし芥川賞を受賞した仙台市出身の書店員、佐藤厚志さんは、大学の入学直後に読んだ大江さんの文学論を読んで、小説家になることを意識するようになったといいます。
佐藤さんは「『小説のことばは、日常で使うことばとは違う』ということを大江さんの著作で初めて知って、小説を書く側になるということを意識した。事実を伝えるだけでは見過ごされてしまうような感情を、小説ではすくうことができるという自分の作家としての考えは、大江さんの著作がベースになっている」と話していました。
そのうえで「いつか会いたいと思って小説を書き続けていただけに、ショックで悲しい。大江さんは私たちに計り知れないものを残してくれたと思う。私もこれからも小説を書き続けて、後の世代に作品を残していけたら」と話していました。
日本被団協 木戸事務局長「被爆者にとっても大きな存在」
日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の木戸季市事務局長は、NHKの取材に対し、「『ヒロシマ・ノート』に代表されるように、大江さんは消えることはなくむしろ大きくなっていく被爆者の身体や心の苦しみ、悩みに向き合い、本当に理解されていたからこそ被爆をテーマとした作品が書けたのだと思う。被爆者への支援拡充や被爆体験を伝え継ぐ活動にも力を貸していただき、被爆者にとっても大きな存在だった」と話していました。
広島原爆資料館 原田元館長「広島に思い入れを持っていた」
原爆資料館の元館長で被爆者の原田浩さんは、館長在任中の1995年に、大江健三郎さんに館内を案内しました。
大江さんの訃報に接し、原田さんは「ずいぶん広島に対して思い入れを持っていらっしゃったので、残念としか言いようがない」と惜しみました。
原爆資料館を案内した際の大江さんの様子について、「熱心に展示をご覧になりましたが、それ以上に印象に残っているのは、私の被爆体験をぜひ聞きたいと言われ、お話ししたことです。非常に大きな衝撃を受けられたのではないかと思います。核心に触れる部分を心に受け止めて、お帰りになられたのではないかと思う」と振り返っていました。
そのうえで原田さんは、「大江先生の残されたいろいろなメッセージを、少なくとも日本は受け止めて、今の世界情勢に向けて取り組む姿勢を持ってほしいという気持ちでいっぱいです」と話していました。
核兵器廃絶目指す市民団体 森瀧春子さん「存在の大きさ実感」
核兵器の廃絶を目指す市民団体の顧問を務める森瀧春子さんは、2014年に大江健三郎さんの講演会を開催しました。
大江さんの訃報に接し、森瀧さんは、「本当に残念というか寂しい思いでいっぱいです。お会いしたのは2度くらいですが、私にとってはもちろん広島や国内外にとって大きな存在だった。失った存在の大きさを実感しています」と話していました。
大江さんは、森瀧さんの父で核兵器廃絶運動の先頭に立ち続けた森瀧市郎さんとも交流がありました。
森瀧さんは「大江さんは父のことを、1人の哲学者として被爆者として、父が思っていたことを深く理解してくれていた」と振り返りました。
そして、「大江さんは、原爆が広島にもたらした人間的悲惨さを心から理解して表現してくれる存在だった。そのような大江さんの立場からもっともっと発信してもらいたかった」と話していました。
沖縄タイムス 新川元社長「大きな存在だった人を失った」
大江健三郎さんが亡くなったことについて、生前親交のあった、沖縄県の主要な地元紙、沖縄タイムスの元社長の新川明さん(91)が、NHKの取材に応じました。
新川さんは、60年近く前の昭和40年に大江さんと講演会で出会って以来、親交があったということです。
新川さんは、大江さんについて「沖縄に寄り添い、沖縄のことをヤマトゥの人たちに訴える非常に大切な役割を、『沖縄ノート』をはじめとする文筆活動の中でやってくれた」と話しました。
そのうえで、「彼を尊敬し、親しみを感じていただけに、その死というものは僕にとって大きな喪失感を覚えさせる大変大きな出来事です。沖縄にとって大変大きな存在だった人を失ってしまった」と述べました。
そして「本当はもう一度ゆっくり話をしたかったです。安らかにお眠り下さいと伝えたい」と悼みました。
沖縄 集団自決を生き延びた人「存在が後押しに」
大江健三郎さんが亡くなったことについて、沖縄県の渡嘉敷島で起きたいわゆる「集団自決」を生き延び、みずからの過酷な体験を語ってきた吉川嘉勝さん(84)は、「ご高齢でしかたがないことかもしれませんが、『集団自決』のことを著書で断じてくださり、全国的に広く知れ渡るきっかけを作ってくれたことに感謝しています」と述べました。
さらに吉川さんは、「大江先生の著者を読んだり講話などを聞いたりしたことで、自分の戦争体験について記してきたメモが記憶の再生となり、事実として検証されたようで、勇気をもらいました」と述べました。
また、高校で使われる教科書の検定で『集団自決』に日本軍が関与したとする記述に検定意見がつけられた問題をめぐり、16年前に開かれた県民大会で意見を述べた時のことについて、「11万人の参加者の前で体験を話すことができたのも、先生の存在が後押しになった」と振り返りました。
そして吉川さんは「先生がしてきたことを受け継ぎ、発信する人が出てきてくれるといいなと思います」と話していました。
生まれ育った愛媛 内子町 交流ある住民グループの人は
大江健三郎さんが生まれ育った愛媛県内子町の大瀬地区には、大江さんと30年以上交流がある地元の住民グループ「大瀬・村の会」があります。
大江さんは、里帰りの際、このグループと食事会を開いたり、大江さんが親交のある音楽家などを招いて演奏会を開いたりして交流を深めてきました。
グループの代表、折本正範さんは「亡くなったことが信じられず、いまもいつか大瀬に帰ってきてくれるような気がしています」と涙ながらに取材に応えていました。
そして、「大江さんのおかげでさまざまな人たちと出会い交流することができ、世界を広げてくれました。大瀬の誇りです。本当にありがとうございますと伝えたいです」と話していました。
松山 大江さんの母校では
大江健三郎さんが卒業した松山市の松山東高校には、大江さんが在校中に刊行していた文芸部の雑誌が保管されています。
雑誌は「掌上」(しょうじょう)という名前で、大江さんがみずからの詩や文芸評論などを掲載していたということです。
学校の資料館には雑誌のほか、大江さんの直筆の原稿も保管されていて、当時の雰囲気が伝わってきます。
「掌上」は今も高校で刊行が続けられているということです。
2年生で文芸・俳句部に所属する田邊広大さんは、「大江さんの背中を見てきたので、大きな喪失感があります。人の心に対するアプローチや考え方をリスペクトしていました。今も同じ雑誌を刊行していることに重みを感じています」と話していました。
また、2年生の野本帆希さんは、「同じ高校に通っていたことを誇りに思って、偉大な先輩を目指して、いつかは超えられるように頑張りたいと思います」と話していました。
和田真志校長は、「日本にとって大きな財産であり、本校にとっても偉大な先輩を失ったことは非常に残念です。今後も大江さんの考え方や心のありようを、生徒たちには後輩であるからこそ身近に感じて、たどってもらえたらと思います」と話していました。
「大江健三郎文庫」設立準備進めてきた東京大学でも悼む声
大江健三郎さんからあわせて1万枚を超える自筆原稿などを寄託され、「大江健三郎文庫」の設立に向け準備を進めてきた東京大学でも悼む声が聞かれました。
東京大学文学部では、おととし1月、大江さんの自宅や出版社に保管されてきた1万枚を超える自筆原稿や、本の出版過程で校正に使われた「ゲラ」などおよそ50点が寄託されています。
自筆原稿には初期作から代表作、それに近年の作品まで含まれ、推こうのあとなどをうかがい知ることができる貴重な資料だとして、東京大学ではことしの夏ごろに原稿などをデジタル化した上で大学の構内に「大江健三郎文庫」を設立できるよう準備を進めてきました。
完成すれば世界中の文学研究者のほか、大江さん自身にも見てもらうことが想定されていたということです。
準備を進めてきた東京大学文学部の阿部賢一准教授は、「大江さん自身にも見てもらいたかったので、それがかなわず残念な思いです。キャリアが長い作家で、1950年代から21世紀に入っても活躍されていた。長い間、非常にコンスタントに作品を発表されていて、日本だけではなく世界においても限られた存在だった。大江健三郎という作家が書いた原稿は永遠に残るので、次の世代に伝えていくことが大江さんからのメッセージだと考えています」と話しています。
大江健三郎の文学と社会的活動
大江さんは若いときから新たな時代の作家として文壇に注目された存在でした。
東京大学在学中の1957年、大学新聞に掲載された作品「奇妙な仕事」が文芸評論家の目にとまり、「死者の奢り」や「飼育」を発表。
1958年に「飼育」で23歳の若さで芥川賞を受賞し、日本の戦後文学界をリードする存在として意欲作を発表し続けてきました。
大江さんは、自身の人生や経験を投影した作品を生み出してきました。
出身地の愛媛県内子町の山あいにある小さな集落の風景は、何度も、大江さんの小説の舞台のモデルとなってきました。
さらに大江さんの文学に大きな影響を与えたのが、生まれつき障害がある長男の光さんでした。
光さんが生まれた翌年に発表した小説「個人的な体験」では、障害児の父親としての心の葛藤を描き、その後も、障害をモチーフにした作品を書いてきました。
また、
▽安保闘争で挫折した男や障害児を出産した女など、日本の戦後世代を克明に描いた「万延元年のフットボール」や、
▽イギリスの詩人、ウィリアム・ブレイクの詩を交えながら障害児の成長を描いた「新しい人よ眼ざめよ」など、
魂の救済や障害者との共生をテーマにした作品を次々と発表してきました。
大江さんの文学は日本だけでなく、世界的にも高く評価され、1994年に川端康成に次いで日本人として2人目となるノーベル文学賞を受賞しました。
受賞理由は「詩的な言語を使って現実と神話の入り交じる世界を創造し、窮地にある現代人の姿を見る者を当惑させるような絵図に描いた」というものです。
ノーベル賞受賞の記念講演では、川端の講演のタイトル「美しい日本の私」をもじった「あいまいな日本の私」と題して日本や文学への思いを語り、話題となりました。
その後も、
▽新興宗教をテーマにした「宙返り」や、
▽親交のあった映画監督の伊丹十三さんの死をきっかけに執筆した「取り替え子」など、
次々と話題作を発表し、長年にわたって第一線で活躍してきました。
また、大江さんは文学者の立場から核兵器や平和の問題に向き合ってきたことでも知られています。
広島で行った当事者への取材をもとに被爆者や治療にあたる医師の姿を描いたルポルタージュ「ヒロシマ・ノート」はベストセラーになりました。
2004年には憲法改正に反対する「九条の会」を井上ひさしさんらと立ち上げたほか、東日本大震災後には脱原発を訴えるデモを呼びかけるなど、社会的な発言も積極的に行っていました。
海外メディア 功績など伝える
大江健三郎さんの死去について海外メディアも生前の功績などを伝えています。
このうち、アメリカのニューヨーク・タイムズの電子版は「大江氏はその強力な小説やエッセイを通して、日本が20世紀の軍国主義の教訓をしっかり学ぶようにと努めた作家であり、戦後の批評家だった」とする記事を配信しました。
そして「ノーベル文学賞を受賞した大江氏は、現代の日本文化が第2次世界大戦の惨禍を招いたのと同じ思想に危険なほど傾いていると感じ、強烈な文学と挑戦的な政治活動で挑んだ」と指摘し、平和主義を掲げた代表的な論客だったと評しました。
AFP通信は大江さんについて「権利を奪われた人々を擁護し、現代社会の同調性に異議を唱えた作家が亡くなった」と伝えました。
そのうえで「平和主義者で反核の思想で知られる大江氏は第2次世界大戦で大きな傷を負ったが、再生への希望に満ちている世代の一員とみずからを位置づけていた」としています。
ロシア国営のタス通信は「大江氏は現代の巨匠の1人とみなされていて、その作品はロシア語など世界中のいくつもの言語に翻訳されている。『ヒロシマ・ノート』を発表するなど、核兵器に反対し、人権のために闘った人物だった」と伝え、功績をたたえました。
韓国メディア 速報で伝える
大江健三郎さんの死去について韓国メディアは日本のメディアの報道を引用して速報で伝えました。
通信社の連合ニュースは、大江さんが憲法改正に反対する「九条の会」に加わったことを紹介しながら「社会問題に参加する知識人として尊敬されていた」と報じました。
また、夕刊紙の文化日報は「日本の知識人の象徴であり、平和憲法の守護者として、人間本来の不安やとまどいの中にも絶えず希望を見いだそうとする作家として評価された」と伝えました。
中国 死を悼むコメントがネット上に
中国では国内メディアが大江健三郎さんの死去を伝えるとともに、死を悼むコメントがインターネット上に書き込まれています。
このうち、夕刊紙「新民晩報」は「大江氏の文章は政治や核エネルギーの危機、それに死と再生など、広い視野とヒューマニズムの精神で書かれている」と伝えました。
そのうえで「大江氏のたくさんの作品が中国語に翻訳された。大江氏は何度も中国を訪れ、2009年には北京にある魯迅の昔の住まいと博物館を参観した」などと中国との関係の深さを紹介しています。
中国版ツイッター「ウェイボー」には「大江さんは私が最も好きな日本の作家だった」とか「『ヒロシマ・ノート』を読んだときのことをまだ覚えている」などと大江さんの死を悼むコメントが相次いで書き込まれています。

NHKアーカイブス 人物録 大江健三郎