残念ながら憲法9条の理念はいまや大いに失われる方向にあり、9条の精神に忠実に立つならば 国会でのゼレンスキー演説の放映はするべきでなかった、というような発言は一顧だにされなくなりました。
世に倦む日々氏が「終戦の日:二つに分裂した「平和」の意味 ~ 」という記事を出しました。二つに分裂した「平和」の意味は明瞭であり、全国戦没者追悼式で天皇が述べられた「平和」は現上皇・上皇后が述べられたものと同義であって、「基本的に憲法9条の理念による不戦の決意であり、戦後日本が守ってきた平和主義を継続させ、その行動を遵守することで平和を守るとの誓い」であるのに対して、岸田首相が式辞で述べた「平和」はそれとは全く違うもので、武力を用いたアメリカとの軍事同盟で保全する平和であり、NATO諸国や豪州と手を組んで守る平和という意味だとしています。
同氏は、それを助長しようとしているのがNHKで、8月15日のNW9にウクライナの中高生が登場し、「西側に武器をくれと言い、戦争でロシアに勝つことが『平和を守ること』だ」と断言し、その論理?に日本の中高生が納得する様子を伝えたのは、「たまたま夏休みに日本に『避難』してきたのではなく、ウクライナの中高生たちはキエフ政権の戦争プロパガンダを任務として渡航しているのであるとして、それによって日本の中高生たちはそれまで自分たちが考えていた平和論は世界の共通認識ではないという『発見』をするように仕組まれていた」と見ています。
まさに「戦争は平和である」というオーウェルの『1984年』の世界というわけです。
CIAなどが背後にいるにしても、ウクライナの世界戦略には、ロシアなど足元にも及びません。それに翻弄されるのは何も若者には限らず高齢に達している人たちも同様です。
そして同氏は、
「ロシア叩きのプロパガンダに協力することは、9条の信念を裏切る態度になることを理解できるはずだ。~ 本当に9条にコミットする平和主義者なら、その罠を看取しないといけないし、戦争プロパガンダの扇動から距離を置き、逆にそれを批判する視角に即かないといけないのではないか。9条の本質は戦争を悪として全否定する思想にあり、戦争当事者である片方の国家の言い分に正義を認めない。まして、この戦争が8年前から始まった経緯があり、東部・南部を中心としたロシア系住民の迫害と犠牲があり、ミンスク合意の不履行があり、昨年10月のゼレンスキー政権によるドローン攻撃の事実があるなら尚更だ。9条平和主義者なら、武器支援によるロシア殲滅を叫ぶのではなく、中立的立場からの即時停戦を言わねばならない」と警告します。
別掲の記事からも看取されるように、たった今もゼレンスキーは国内で恐るべき専制恐怖政治を敷いています。彼は「正義の士」でもなければ「平和主義者」でもありません。
決して平和主義者などと自己満足すべきではなく、物事を厳正に理解しようとすべきです。
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終戦の日:二つに分裂した「平和」の意味 - 誰も靖国参拝を批判しなくなった
世に倦む日日 2022年8月16日
終戦の日。全国戦没者追悼式で天皇と首相の二人が式辞を読み上げた。二人の式辞の中には平和への意思や宣誓が示されたくだりがあり、それが趣旨であり、中心的な表明内容なのだけれど、二人の言っている「平和」の意味は同じではない。かなり違う。今年は特にその点を強く確信させられた。無論、そのことは今年初めて直観したことではない。現上皇が平成天皇の時代にこの場所で述べた「平和」と、その10分前に安倍晋三が口にした「平和」とは、明らかに中身が違っていた。
二人の言う「平和を守る」は意味が異なる。字面だけ見ていると気づかないが、あるときから、日本の国家トップが語る「平和」の意味が二種類に変容した。二つに分裂した。首相が海部俊樹や宮澤喜一や細川護熙や村山富市や小渕恵三の時代は、8月15日の式辞で天皇と首相の述べる「平和」はほぼ同じ意味であり、特に齟齬はなかった。戦没者に向かって、国家国民の代表として、平和を守り続けますと誓うときの、その言葉の具体的イメージは同一だった。そしてそれは、テレビで中継を見守る国民の意識でも同じだった。だが、現在は違う。
どう違うのか。現天皇の式辞が含意する「平和」は、基本的に憲法9条の理念が想定されている。不戦の決意であり、戦後日本が守ってきた平和主義を継続させ、その行動の遵守と延長によって平和を守ると誓っている。現上皇の思想が文面行間に織り込まれていて、現上皇の精神と人格が凝縮され言語化された「平和」に他ならない。一方、岸田文雄が式辞で述べる「平和」はそれとは全く違う。その「平和」は、武力で国家を守る平和であり、アメリカとの軍事同盟で保全する平和である。NATO諸国や豪州と手を組んで、敵国から日本の平和を守るという意味だ。
二つの式辞の「平和」は意味が違う。私やブログ読者のような9条にコミットする平和主義者は、現上皇の「平和」こそが日本の真の平和だと認識し、終戦の日に武道館式典に整列して誓いをあらたにする「平和」を、その意味で解釈し了解してきた。だが、そうした立場の者は、今や少数になり、異端にすらなろうとしている。マスコミが言説する「平和」は、岸田文雄や安倍晋三の言う「平和」と完全に同義であり、憲法9条や現上皇の「平和」ではない。それは、いわゆる国際政治の範疇の安全保障の「平和」なのである。
日本の「平和」の語は、意味がスポイルされ、疎外され、本来の概念を失った。日本人が持っていた「平和」の語の純粋な理念性は、崩され、塗り替えられ、英米西側とロシア中国が国際政治の舞台で議論し用語するところの、安全保障の目的の意味の「平和」になった。武装と対峙が当然であり、軍事戦略の目的物となり、軍事と対立しない、軍事の世界の範疇になった。テレビでタレント活動する防衛研の軍人が蝶々する言葉になった。9条を唾棄し侮蔑する政治学者や論者やキャスターが専有する面妖な言語になり、安倍晋三の意味で定義されてマスコミ空間で固まっている。
その「平和」の意味変質と理念剥奪が、今年、最も分かりやすい形で上から「教育啓蒙」的に行われ、国民の意識に刷り込まれた場面が、8月の慰霊のシーズンを覆ったウクライナ・プロパガンダである。ウクライナ戦争の被害者となったウクライナ人を主役にした、彼らの「平和」の論理と主張の正当化であり、日本人への強調と説得である。その典型的な事例が、8月15日のNW9の放送だった。ウクライナの若者は、西側に武器をくれと言い、戦争でロシアに勝つことが「平和を守ること」だと断言する。その「平和」論に日本の中高生が納得し、その教導(洗脳)の様子をNHKが国民に演出した。
今、日本ではウクライナは絶対化され神聖化されている。ウクライナの中には少なからず親ロシア派の住民がいて、また停戦派がいるのだが、それは無視され、キエフ政権と同じ立場と主張の者だけがウクライナ人として日本のマスコミに登場する。そして、英米ゼレンスキーと同じ意見を言う。当たり前のことだが、この夏休みに「避難」してきたウクライナの中高生は、キエフ政権の戦争プロパガンダのために渡航しているのであり、それが任務であり前提である。そう推測できる。日本のテレビが撮影しているのに、ロシアと和平すべきだとか、日本の平和憲法が羨ましいなどと言えるはずがない。
ウクライナの中高生は、日本の中高生に向かって、戦争で敵に勝つことが平和の意味であると言い、その「平和」の定義を一般論化する。その議論に日本の中高生が頷き、自分たちが考えていた平和論(=日本の学校で教育された平和概念)は世界の共通認識ではないという「発見」に逢着し、9条的な平和思想は世界標準ではないと「覚醒」する。そうしたストーリーのNHKミニ特集だった。誰が企画して台本を書いたのか知らないが、右翼NHKが悪辣な政治をやっている。仙洞御所の上皇夫妻はテレビの前で気が滅入ったことだろう。戦争は平和である。オーウェルの『1984年』ではないか。
関連して、8月9日の長崎の原爆の日に放送された被爆者の活動の件がある。式典で「平和への誓い」を読み上げた宮田隆。スピーチは本当に素晴らしかった。全文がネットに上がっているが、「日本国憲法第9条を厳守」せよと言い、「二度と戦争をしない国民の強い意志と、国家としての戦争放棄は、戦後、確かに国民の命を守ってきました」と言い、「対話による平和外交こそ、新たな時代への挑戦です」と言っている。テレビを見ながら感動し、胸が熱くなった。今、この言葉を語ってくれる者がいない。感謝の気分で嬉しかった。だが、なぜ、その同じ人が、ウクライナ戦争については米英西側のエバンジェリスト(⇒福音伝道者)なのだろう。
本人がウィーンの核兵器禁止条約会議へ行き、路上でウクライナ戦争反対の活動をする絵が紹介されたが、矍鑠(かくしゃく)とした本人の訴えは、基本的にNHKのロシア叩きの言説に丸ごと被せ、それを補強する材料となっている。本当に9条平和主義者だったら、この戦争の原因と責任がロシアだけに帰するものではなく、NATO東漸とロシア圧迫の背景があり、英米による有毒なウクライナ工作とカラー革命の謀略にある全体構図も了解しているはずだ。ロシア叩きのプロパガンダに協力することは、9条の信念を裏切る態度になることを理解できるはずだ。西側は、核禁をロシア叩きに活用する狡猾な政治を行っている。それは世界の軍事的対立を深め、WW3の危機を増す政略でしかない。
本当に9条にコミットする平和主義者なら、その罠を看取しないといけないし、戦争プロパガンダの扇動から距離を置き、逆にそれを批判する視角に即かないといけないのではないか。9条の本質は戦争を悪として全否定する思想にあり、戦争当事者である片方の国家の言い分に正義を認めない。まして、この戦争が8年前から始まった経緯があり、東部・南部を中心としたロシア系住民の迫害と犠牲があり、ミンスク合意の不履行があり、昨年10月のゼレンスキー政権によるドローン攻撃の事実があるなら尚更だ。9条平和主義者なら、武器支援によるロシア殲滅を叫ぶのではなく、中立的立場からの即時停戦を言わねばならない。
市民個人は、世界が新冷戦の陣営対立に流れる動きに掉さすのではなく、逆に、西側と中露が価値観を超えて協調し合う方向を願って努めなければならない。
今年も、NHKは昨年と同様に、8月15日の靖国神社の光景を、この日の季節の風物詩の如く切り取って報じ、右翼の参拝を一般市民の自然な行動と意味づけてニュースに流した。このNHKの情報工作が積み重なり、その見方が常識化されつつある。靖国神社への参拝に反対するのは韓国と中国だけという報道と認識に固められ、日本人のお盆の精神行事を一部の外国が不当に政治化して非難攻撃しているという図式になった。14日・日曜朝のテレビでは、橋下徹が、首相も天皇も早く参拝できるようにしろと吠えていた。それが多数派たる保守の正論になっていて、誰も批判しない。どこからも制止と反論が出ない。
実際のところ、左翼の方面が靖国問題に無関心で、志位和夫や小池晃のツイッターを見ても、日本共産党公式アカウントを見ても、3閣僚の靖国参拝に抗議していない。福島瑞穂と社民党も同じだ。反対の声明を上げたのは、中国政府と韓国政府である。日本国内の左派野党が何も言わず、放置し黙認しているから、靖国参拝に反対しているのは一部反日の外国だけだという右翼の言説が成立する。その言説が妥当性と説得力を持って市民社会に浸透する。その空気が積み重なり、靖国はプラスシンボルになる。日本人の「正義」になる。このことを懸念しずっと警告してきたが、左翼は無反応で、無関心になる一方だ。
台湾有事の日が来たら、当然、自衛隊員に戦死者が出る。靖国に英霊として祀ろうという進行になる。ひょっとして、日本共産党の委員長と書記局長も、靖国に参拝したり、玉串を奉納したりするようになるのだろうか。現在は、その図は普通人の想像の外にある荒唐無稽な妄想だ。だが、今、日本共産党と支持者は、8月15日の閣僚の靖国参拝に何も言わず、NHKによる靖国肯定の偏向報道を全く咎めない。それを軍国主義復活だと糾弾しない。私のような、左翼から誹謗中傷されている偏屈な無名居士が、社会の異端でその役割を演じている。左翼政党は沈黙を決め込み、靖国に忖度し妥協する怯弱なスタンスとなった。
日本共産党もバカではないから、変化する情勢を正確に分析研究し、組織の生き残りを真剣かつ周到に計算し、一つ一つの局面での政治対応を判断しているのだろう。その一つが、南京大虐殺の日に合わせた北京五輪ボイコット要求だったのだろう(あれには腰を抜かしたが)。戦争の時代を賢く生き抜く市井庶民は、そうした日本共産党の挙措と按配を遠目から観察して、それを参考に、自己の言動を制御・調整しないといけないのに違いない。日本共産党の幹部が靖国に玉串料だの笑い話だが、笑えないのが現在の厳しい現実である。靖国への姿勢は9条への姿勢とペアになっている。9条から遠ざかれば遠ざかるほど、靖国に近づく。
最後に、私事ながら、今回から note に引っ越す次第となった。画像位置を自由に設定できず、トレードマークだった画像を左右に配置する表現スタイルを維持できなくなった点が残念だが、提供されている書体の仕様は満足できる。連載環境が変わるのは8年ぶりのことだ。2014年、小保方事件とかを精力的に追いかけて論評していた。まだ「他力」などという言葉は思い浮かばず、自信(自惚れ)を持っていた。月12本以上書き、体力は十分だった。8年で半分程度に生産力が落ちてしまい、歯がゆく哀しくはあるが、新たな環境で気分一新して頑張りたい。この新環境が、志は千里を駆ける老騏の馬小屋だと、前向きに。