2018年6月3日日曜日

03- <もうひとつの沖縄戦>(4)(東京新聞)

 東京新聞の「シリーズ <もうひとつの沖縄戦>」(4)を紹介します。
※ 原記事にアクセスすれば当時の写真もご覧になれます。
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<もうひとつの沖縄戦>(4)
      なぜ沖縄県民だけが
東京新聞 2018年6月2日
 沖縄戦から七十三年。沖縄県北中城村(きたなかぐすくそん)に住む元飲料会社会長、安里祥徳(あさとしょうとく)さん(88)は今も思う。「われわれはなぜあのように異国を転々とさせられたのか」
 
 一九四五年三月。当時十五歳。現在の那覇市首里(しゅり)にあった旧制県立第一中(現首里高)二年だった安里さんは、米軍の沖縄本島上陸が迫る中、陸軍二等兵扱いの少年通信兵として召集された。しかし所属中隊は米軍に追い詰められ、糸満市の摩文仁(まぶに)まで一気に撤退、六月下旬に投降した。
 米軍の兵員輸送船でハワイに送られ、ホノウリウリ収容所に。間もなく米国本土に移されることになり、シアトルに向かう船上で敗戦を迎えた。その後、サンフランシスコの収容所へ移され、さらにテキサスへと移されそうになったときにその移送は中止となった。
 米軍はホノウリウリで捕虜をボーイ(年少者)とオールド(年長者)にえり分け、ボーイの安里さんら百人余りはほかの捕虜よりも早く、四五年の秋に沖縄に帰された。安里さんは「当時は分からなかったが、ハワイでの労働に適さない者を外したのかな」と思う。
 沖縄戦の捕虜移送は未解明な部分が多い。最大の謎は「なぜ沖縄県民だけがハワイに移送されたのか」という点だ。
 米軍は戦場で捕まえた者を戦闘員と非戦闘員に分け、さらに戦闘員を(1)本土出身の日本兵(2)朝鮮半島出身の軍夫ら(3)沖縄県民-の三つに分けた。安里さんのような少年もこの選別の対象になった。沖縄県史などによると、ハワイに送られた三千人余の捕虜は、ほとんどが沖縄県民だった。
 
 戦時中のハワイ日系人の強制収容を研究する国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)外来研究員の秋山かおりさんは、ハワイに連行された県民の捕虜リストを沖縄県公文書館で見つけた。リストには海外戦地の捕虜も含め約三千六百人が記載されていた。
 「移送の謎に答える決定的な史料はまだ見つかっていない」と話す秋山さん。当時のハワイは労働力不足で、米本国から日本人捕虜も使えという指令が出ていたというが、秋山さんは「理由はそれだけではない可能性が高い」と推察する。
 学徒兵として捕虜になった古堅実吉(ふるげんさねよし)さん(88)は「米軍は戦後の沖縄占領を円滑に進めるために、沖縄の男を沖縄から切り離したかったのではないか」と考える。「軍隊にいた男は邪魔になる。だから僕みたいな少年も容赦しなかった」
 四六年の秋以降、ハワイに一年以上抑留された捕虜たちが帰り着いた沖縄は「アメリカ世(ゆ)」に変貌していた。沖縄の生活のすべては米軍の指揮下にあった。 (編集委員・佐藤直子)