長文のため掲載は3回に分け、今回はその1:人格を形成した不登校時代、青春時代の秘話の数々です。
聞き手は『文部省の研究』の著者・辻田真佐憲氏です。
聞き手は『文部省の研究』の著者・辻田真佐憲氏です。
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前川喜平 前事務次官“初告白”「完全に右翼だった軍歌少年時代」
前文部科学事務次官・前川喜平 2万字インタビュー No.1
辻田真佐憲 文春オンライン 2018年6月22日
“総理のご意向文書”の存在を告発し、加計学園問題に一撃を与えてから1年。前文部科学事務次官・前川喜平氏の「履歴書」を150分にわたってお伺いしました。まずは、人格を形成した不登校時代、青春時代の秘話の数々。聞き手は『文部省の研究』の著者・辻田真佐憲さんです。(全3回 記事のインタビュー)
◆若い人たちとはまだ今でも会っています
――「『総理のご意向』文書は本物です」と、前文部科学事務次官の立場で告発し、大きな反響を呼んでから1年が経ちましたが、身の回りの環境は変わりましたか?
前川 ずいぶん変わりましたね。特に交友関係が大きく変わったんですよ。今まで付き合っていたいろんな人と疎遠になっちゃって。
――今までのお付き合いというのは。
前川 政治家とか役人です。もちろんあの後も繋がっている人はいます。文科省の官僚でも審議官以下、若い人たちとはまだ今でも会っています。ポストを気にし始める審議官以上だと、「ちょっと今は前川さんとは会えない」というのはあるでしょうね(笑)。
――官僚の中でも文部官僚というのは地味で表に出てくる場面がなかなかないと思うんです。そんな中で、前川さんはまさに「異色の官僚」。今回はライフヒストリーを含め、これまでの官僚人生、文部行政の現代史をお伺いしたいと思います。
前川 いえいえ、普通の大人しくしていた官僚ですよ(笑)。
祖母が「なんで4がついてんねん!」って
――お生まれは1955年、奈良県の今は御所(ごせ)市になる場所ですね。そのあと小学3年生で東京に引っ越されますが、奈良時代の学校体験で印象的なことは何でしょうか。
前川 秋津小学校というところに3年生の1学期までいました。小学1年時の女性の担任の先生は優しかったんですが、2年3年の時の担任はかなり年配の先生で厳しかったですね。昭和30年代後半のことですから、その先生はおそらく戦前の国民学校で訓導をやっていた方だと思います。ですから、あまり民主的ではなかったですよね(笑)。体罰も受けました。
――どんな体罰を?
前川 こちらも本当に悪いことしたんだからしょうがないんですが、ほっぺたをつねられました。僕だけじゃなくて、悪さした何人かが並べられて、ビッビッビッて。痛かった。
――勉強はよくできたんですか?
前川 私の母親は教育ママというほどではないけれど、参考書だとかドリルを買ってきてくれました。田舎の小学校ですから誇れることでもないと思いますが、1年生の1学期の体育「4」を除けば、転校するまで成績は全て「5」だったんです。でも、これには裏がありましてね、私の実家というのは地主の家で、その地域では「ボス」だったんです。それでうちの祖母が「なんで4がついてんねん!」って学校に文句言ったらしいんですよ(笑)。それ以降、オール5の成績になったという。「井の中の蛙」そのものの世界で恥ずかしい話です。
――強烈なお祖母さんですね。
前川 正確には養祖母になるんです。私の父には東京で前川製作所という冷凍機の会社を作った実父母の家と、実父の兄で奈良の本家にいた養父母の家がありました。この奈良の家が古い偏見や差別、あらゆる封建的なものを残したところで、祖母なんか僕の友だちに向かって「喜平ちゃんと呼ぶな、ボンボンと言え」って真面目な顔で怒るんです。学校に行くときに「喜平ちゃん行こか」じゃなくて「ボンボン行きまひょか」と言えと。私はそれが嫌でね。妥協の産物として「ぼうやちゃん、行こか」になりましたけど。
香港で生まれてバンコクで育った帰国子女の母
――他には奈良独特の体験というのはありましたか?
前川 同和地区の多い地域でしたから、クラスメイトの中にもそこの子どもたちがいましたが、全く意識することはありませんでした。これはおそらく、母親の影響が大きくて、母は差別意識や偏見を持たないよう教育をしてくれていたんです。というのも母は戦前に香港で生まれてバンコクで育った帰国子女。母の父は三井物産の支店長をしていた人なんです。戦時中に東京に戻ってきて、戦災に遭って、戦後は財閥解体で父親が失職。苦しい時期を経て、女学校を卒業し、私の父と知り合って奈良のど田舎に来たという人生で、まぁ意識してリベラルだったかわかりませんが、無意識のうちに古い道徳には縛られないところがあったんじゃないでしょうか。
――お父様はどんな方なんですか。
前川 父は早稲田大学の政治経済学部を出た人で、仏教青年会に入って仏教の勉強をしていました。田舎から東京に出て過ごした人ですし、母と同じく古い因習には縛られていませんでした。
――そういうご両親だからこその人格形成はあったと思いますか。
前川 今から考えればあると思います。弱者に対する思いというのは、特に母から引き継いだところが大きい気がします。今でも覚えていますが、小学校の近くに工場ができて、そこで働く家族がたくさんやって来て、転校生が何人か来たことがあるんです。その中に黒人系のハーフの子がいまして、髪の毛も肌の色も違うから、仲間はずれにされてしまってね。でも私はさっき言った「地域のボス」的な家の子どもだったから、主導権を取れる場面では彼を入れてボール遊びをしたり、あるいはピアノ教室の帰りに彼がとぼとぼ歩いているのを見つけると「乗りなよ」ってうちの車に乗せて送ってあげたりしました。そのとき彼はお米を入れた一升瓶を大事そうに抱えて歩いていましてね。後から母親に背景を教えてもらって、貧困の現実を子供心に刻むような体験をしました。今でも鮮明に思い出しますね。
東京に転校して不登校「私の人生の最も暗黒な時代」
――小学3年生の1学期に奈良から東京へ転校。最初は文京区に住まわれたそうですね。
前川 1学期の終わりに転校したものだから、クラスに仲良しができる間も無く夏休みに入ってしまった。ところがプールの授業が夏休み中にあったんです。でも、奈良の学校にはプールがなかったので、まったく泳げなかったんです。顔を水につけることすらできなかった。それで、プールの授業が嫌で嫌で。しかも、あの夏はそれほど暑くなかったので、プールに一人佇んでいるとガタガタ震えてきて……。夏休み明けの2学期から3学期が終わるまで、不登校になってしまうんですが、それはプール体験が大きかったと思います。
――それまでは奈良の田舎のヒエラルキーではトップにいたのに……。
前川 東京ではボトムですよ。母が東京の人間だから東京弁はできたんだけど、やっぱり言葉遣いは違ってよく笑われたのも嫌だった。私は母親のこと「お母ちゃん」って呼んでたんです。でも、クラスメイトは「僕たちはママって言うよね」って(笑)。「奈良に帰りたい!」ってずっと親に言ってました。私の人生の最も暗黒な時代です。
――その後、港区の小学校に転校されています。
前川 親が独立して家を構えたんです。それが小学4年生になる時。今度はうまくやろうって考えて、じわりじわり、少しずつ声をかけて仲良くなって、うまく友だちを作っていきました。ハンガリー人の子がいたのを覚えていますね。あのへんは大使館があるから。この学校にはうまく馴染めまして、5年生で学級委員もやりましたよ。
――出世しましたね。
前川 出世してますよ(笑)。転校生の気持ちがよく分かるから、積極的に転校生とは仲良くしました。
麻布中学で迎えた「1968」
――中学受験をして麻布に行かれますが、やはり塾には通っていたんですか?
前川 6年生になってから、急に両親が「喜平を受験させよう」って言い出しまして、じゃあ家から歩いて行ける麻布を受けるということになったんです。担任からは「今からじゃ遅いですよ」って言われましたけど、親が「蛍友会」っていう塾を探してきて、毎週日曜日、目黒まで通っていました。途中で母がこっちの方がいいと言って「日本進学教室」という塾に替えました。
――麻布には中高6年間通われますが、この頃の思い出といえば何でしょうか。
前川 入学したのが昭和42年、1967年です。その翌年、私が中2の年というのは日本だけでなく、世界中で学生が暴れまわった1968年なわけです。パリでは5月革命が起こり、日本では東大や日大を中心に学生運動が盛んになる。麻布はそういうものにすぐ影響を受けちゃうんで、高校のお兄さんたちがヘルメットかぶって角棒持って、「制服自由化だ!」とか何とか、学校を変えるんだと執行部に要求を突きつけていました。校長室占拠なんていうこともありましたよ。それで、校長が交代して、校長代行が校内を仕切ることになるんですが、この人がとんでもない人で。とにかく力で押さえつけるんです。これには教員の中からも反発が出て、職員室が分裂しちゃうわけ。結局は校長代行は失脚、校長代行派は一掃されるんですが、まあひどかったですね。警察が入ってきたこともあるし、ロックアウトになったこともありました。
――そこまでですか。
前川 高校2年の時にロックアウトになったので、突然の秋休みになったんです。友だちと信州に遊びに行きました。
――そういう無秩序な学校の状態を、当時はどんなふうにご覧になっていましたか?
前川 自分しか頼るものがないんだ、何が正しいかは自分で選び取っていくしかないんだって思うようになりました。自分で確かだと思ったことしか、確かではないんだ、というような。
小説家になりたくて応募した作品は「けやき賞」
――その頃の麻布出身者には官僚の道に進んだ方も多いと思います。みなさんそういう傾向にあるんでしょうか。
前川 みんながそうかは分かりませんが、多かれ少なかれ、そういう経験はしていると思います。自分で自分の道を見出すしかないと考えた人間は、多かったと思いますけどね。
――大学受験も、そういう自分の道を見定めて取り組んでいたんですか?
前川 私は理系のクラスにいて漠然と宇宙物理学者になりたいなどと思っていたんです。アインシュタインを凌ぐような物理学を打ち立てて、もっと宇宙の真理を探りたいという野望を抱いてました(笑)。分かりもしないのに相対性理論の本を買って読んでましたよ。でも、理系で受験するためには数Ⅲが必須。ところが歯が立たないわけ。それで高3の夏休みが終わる頃には文転することを決めました。
――それで東京大学の文科を目標にすると。
前川 詩人や小説家になりたい気持ちもあったんです。高校の時に『高1コース』から『高3コース』まであるあの雑誌を毎月購読していたんですが、そこに学研が主催している「コース文学賞」というものがあって、そこに小説を応募したことがあります。そしたら、上から7番目の賞になったの(笑)。「けやき賞」っていう賞をもらいました。
――どんな小説だったんですか?
前川 港区の小学校時代に仲良くなった転校生の友だちと、一緒に北海道のおばあさんの家に遊びに行ったことがあるんです。そこで経験した人間関係の機微、ある一人の人間の生い立ちに秘められたものを小説にしたんですけどね。彼とは今も仲がいい友だちです。この小説がもっといい賞をとっていれば、本気で文学を目指していたかもしれませんね(笑)。
実は乃木大将のことを尊敬していたんですよ
――当時はどんな本を読んでいましたか?
前川 うちの親父は国内外の文学全集を家にダーっと並べていたんです。だから、暇に任せて小学生の時からめくってはいました。家の文化的環境って大きいなって思いますけど、影響を受けたものは何だろうな……。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、とにかく全部読んでみようと思って読破しましたね。絶対の真理とか、絶対の倫理とか、そんなものってあるのかどうか、ずいぶん考えたものですよ。ドストエフスキーはこれと『罪と罰』しか読んでないですけど。
――分厚いところを2作品も。
前川 途中でやめた本も多いですよ。ドストエフスキーの『二重人格』とか、わかんなかったなあ。
――音楽はどんなものを聴いていましたか?
前川 家にあったレコードといえば親父が早稲田なもんだから、A面が早稲田の応援歌、B面が慶応の応援歌っていうやつ。よく聴いてましたね。あとは軍歌が多かったですね。
――軍歌ですか!
前川 私が結構好きだったのはね、『出征兵士を送る歌』。
――「我が大君に召されたる~」
前川 えっ! よく知ってますね。
――私、軍歌の研究もしているので……。
前川 それはそれは。『空の神兵』、あれもいい歌ですよね。それから国民歌の色合いが強いけど『愛国行進曲』。『戦友』は「ここは御国を何百里~」か。そうだなあ、あとは『軍艦マーチ』も好きだったですよ。「守るも攻むるも黒鉄の~」。あとこれは軍歌ではないけども『水師営の会見』。
――乃木大将ですね。
前川 僕、実は乃木大将のことを尊敬していたんですよ。小学、中学くらいまでは相当に。『海ゆかば』も好きです。あれは音楽作品としてかなり優れたものだと思います。「大君の 辺(へ)にこそ死なめ かえりみはせじ」ってね。まぁ、『水師営の会見』だの『海ゆかば』だの『愛国行進曲』だの、完全に右翼って言ってもいいくらいですよ、そういう意味では。
軍歌好きから反戦歌好きに
――意外ですね……。他にはどんな音楽を聴いていましたか?
前川 あとはクラシックですね。はじめはベートーヴェンばっかり聴いてました。それからチャイコフスキー、ブラームス。交響曲系が好きで、マーラーにも広がっていきました。ショパンやベルリオーズの『幻想交響曲』もいいですね。でもやっぱり、ベートーヴェンはすごいと思う。
――ポピュラー音楽はいかがでしたか?
前川 フォークソングはよく聴いていました。高校生くらいのときにフォーク・クルセダーズが出てきて、これは衝撃的でした。「おらは死んじまっただ~」の『帰って来たヨッパライ』。これ、歌かよ? って。でも、フォーク・クルセダーズで好きなのはやっぱり『イムジン河』『悲しくてやりきれない』。フォークソングというと、やはり反戦歌が多いわけで、外国であればピーター・ポール&マリーの『花はどこへ行った』。この歌はキングストン・トリオのほうが好きですけどね。
――軍歌好きが反戦歌好きになったんですね。
前川 まぁ、いろんなものが若い頃にどんどん入ってきたわけです(笑)。そうやってカオスの中から人間ができていくんじゃないですか。