前文科事務次官・前川喜平氏インタビュー記事の最終回は、安倍内閣の伊吹文明文科大臣に官房総務課長として仕えたところから始まり、文科次官を辞任して現在に至るまでが語られます。
情熱を持って文科行政に携わったトップ官僚であったとともに、常に達観する視点を失っていない人柄が伝わります。
聞き手は『文部省の研究』の著者・辻田真佐憲氏です。
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安保法制反対デモに参加した事務次官
前川喜平が語る「安倍政権下の“苦痛な仕事”」
前文部科学事務次官・前川喜平 2万字インタビューNo.3
辻田 真佐憲 文春オンライン 2018年6月22日
加計問題に揺れる安倍政権に「告発」によって打撃を与えた前文部科学事務次官・前川喜平氏。知られざる官僚人生を聞く150分インタビューの最後は民主党政権を挟んでの、2度にわたる安倍政権での忘れられない出来事、そして辞任の日のこと。聞き手は『文部省の研究』の著者・辻田真佐憲さんです。
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教育基本法を改正したいとは思っていませんでした
――教育行政について安倍内閣は政治色の強い打ち出し方をしています。たとえば、2006年の第1次安倍内閣時の教育基本法の改正。この時はどんな仕事をされたのでしょうか。
前川 官房総務課長として大臣の伊吹文明さんに仕えていました。総務課長というのは、大臣のそばにいるのも役目の一つなんですが、伊吹さんから言われたのは「お前は国会に行ってチョロチョロするな。俺の側におれ」と。ただ、そうもいかないんです。国会対策の根回しに、色々と動かなければなりませんからね。
――教育基本法の改正の動きには、どう対応されていたのでしょうか。
前川 生涯学習政策局が担当していましたが、国会に提出する前に、自民・公明で長いこと与党協議をやっていたはずです。今から考えると公明党が相当なストッパー役を担い、決定的に国家主義とか全体主義にいかないよう、歯止めをかけてくれたと思います。私自身は1947年のオリジナルの教育基本法が良い法律だと思っていましたから、改正したいとは思っていませんでした。
――決定的な国家主義ではないにせよ、改正された教育基本法には「道徳心を培う」だとか、「我が国と郷土を愛する(…)態度を養う」といった方向性が盛り込まれました。
前川 旧法にあった大事な言葉「教育は国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」という文言がバッサリ削られてしまったのは大きかった。この文言の「直接」というのは、すなわち教育と国民との間に政治権力は介在しない、ということを言っているわけです。あくまで教育とは、教育する側と国民との直接の関係ですよと。これが改正法では「この法律及び他の法律の定めるところにより」という言葉に置き換わってしまい、法律の根拠さえあれば政治は教育にどんどん介入できるという書きぶりになってしまった。
――なるほど。
前川 ただ、その前にあった言葉は残っているんです。「教育は、不当な支配に服することなく」。これを残したのは公明党だと思います。
2009年の政権交代で文部省は「勝ち組」と言われた
――その後、2009年9月に政権交代があり民主党政権が誕生します。官僚はああした大きな環境の変化をどう受け止めるものなのでしょうか。
前川 まぁ、人によってはえらいことだ、どうしようってオロオロしたんでしょうが。私はチャンスだと思いましたね。
――チャンスと言いますのは?
前川 私は元々、文部省に入ったときから組織に違和感を持っていたわけですから、よしこれで文科省もいよいよ変われるチャンスかなと思ったりしてました。特に民主党は高校無償化ってすでに政策で掲げていましたでしょう。
――一方で民主党政権は政治主導を強く掲げて「事業仕分け」が行われました。例の蓮舫さんの「2位じゃダメなんですか」発言。あれは文科省のスパコン研究が対象にされたものでしたけれども、どう思いましたか?
前川 あれはもう、困りましたよ(笑)。とにかく無茶苦茶言われるのには往生しました。でも、民主党政権では「文科省は勝ち組」と言われていたんですよ。
――どういうことですか?
前川 あのとき「コンクリートから人へ」ってスローガンで民主党はやっていたでしょう。前原(誠司)国土交通大臣が八ッ場ダム工事を中止したり、公共事業をバッサリ減らしましたよね。それで、人といったら、やはり教育や文化行政なんですよ。だから高校無償化が一番の目玉政策だったわけで、そのために4000億円の財源をひねり出してくれた。
――ちなみにこれは財務省出身の方から聞いたんですけれど、「2位じゃダメなんですか」のときのように、文科省は攻撃されるとノーベル賞受賞者や金メダリスト、宇宙飛行士という「国民の英雄」を前面に立たせて国民の支持を得て、予算獲得のための組織戦をしてくると(笑)。だから文科省は財務省にとって意外と手強いというのですが……。
前川 ハハハ。私は主に教育行政をやっていたので、華々しい国民的英雄があまりいない分野でしたが、文化・スポーツ・科学の分野ではそれができるかもしれない。
朝鮮学校無償化に強烈に反対した民主党の閣僚
――朝鮮学校無償化の話もこの時代のものだと思います。これに対しては色々な意見もあったかと思いますが、いかがでしたか。
前川 野党時代の民主党がすでに朝鮮学校も対象とする前提で高校無償化法案を出していた。それを下敷きに制度設計をしたのですから、朝鮮高校は当然対象になると考えていました。しかし、外国人学校が朝鮮学校だけというわけにもいかないだろうと。そこで外国人学校は全部、高等学校の過程に類するものは全て入れようということになったわけです。ところが今は、フランス人学校やドイツ人学校は対象になっているんだけど、朝鮮学校だけは排除されている。極めていびつな形になっています。
――民主党政権ではどのような議論があったのでしょうか。
前川 民主党政権に変わったとき、私は初等中等教育局の審議官として高校無償化の制度設計も実質的に指揮していました。当然、朝鮮高校を対象にするつもりで作業していましたが、実は民主党政権の閣内にも異論がありましてね。拉致問題担当大臣の中井洽さんが強烈な反対論者でした。拉致問題と朝鮮高校で学んでいる子どもたちの授業料を軽減するって話は全く別の話で、これでは「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」の話だなと思っていました。
私はね、好きでした、田中真紀子さん
――朝鮮学校無償化に対する右側からの攻撃について、寺脇研さんとの対談本『これからの日本、これからの教育』で、前川さんは「『ネトウヨ』といわれる人たちは、『個の確立』ができていないのでしょうね。ある意味、教育の失敗だと思います」と語られています。ネット右翼については当時から意識されていましたか?
前川 私はあんまりネットを見ないので、意識してなかったと思います。産経新聞は意識せざるを得なかったんですが。もう、相当目の敵にされていましたからね。
――この頃からですか?
前川 朝鮮高校無償化の議論がなかなか進まない中で、高校の生徒たちが署名を持って私を訪ねてきたことがあったんです。その署名の中に日本人のものもあったと聞きましたので、「なかなか結論が出なくて申し訳ない。日本人の人たちの理解を得られたことはいいことですね」という言い方をしたんです。この発言が「朝鮮新報」に載り、それを産経新聞が記事にしたんですね。前川という審議官がこんなことを言っていたって攻撃されました。
――ところで民主党政権の最後は田中真紀子文科大臣でした。印象はいかがでしたか?
前川 私はね、好きでした。官房長としてお仕えしましたが、表裏のない人ですよ。この時の次官は科技庁系の森口泰孝さん。田中大臣、森口次官、私、それぞれ相性よかったと思います。朝鮮高校無償化にも非常に前向きだったんです。ところが政権交代が起きて、2カ月半で大臣も交代。在任期間の最後には大学設置審議会の答申に反する「設置不認可」の問題で紛糾してしまいました。あれがなければ、朝鮮高校の話ももっと前向きに進められたかもしれません。
安倍さんのところに行くのは別に嬉しくもなかった
――そして2012年末、ついに第2次安倍政権がやってきます。首相動静を見ていると、前川さんも官邸に出入りすることが多くなってきます。官邸の安倍首相はメディアで見せる顔とは違うものですか?
前川 官邸に行ったほとんどのケースは教育再生実行会議のご説明で、大臣のお供で付いて行っただけです。「次の回ではこんなことを議論していただき、総理にはこの時間からこの時間までご出席いただきまして、こんなことでご発言頂きたい」。そういうシナリオ説明です。
――コミュニケーションは特になかったですか。安倍さんが自分の教育観を語るようなことは。
前川 聞いたことはないですね。「ああ、わかった」くらいの感じでしたし、私も安倍さんのところに行くのが別に嬉しくもなかったですから(笑)。
――菅官房長官にもご説明に行くわけですか?
前川 そうですね。長官には会議の説明のほか、人事関係のことでお伺いしたこともあります。人事については菅さんのご意向という形で副長官の杉田和博さんから突き返されたことも何度かありましたね。菅さんねぇ……、まぁあんまり好きじゃないな。
――やはり人事に口を出されるところなどは嫌いなところで……。
前川 いやいや、嫌いとは言ってませんよ。好きじゃないと言ってるだけ(笑)。だけど、去年の今頃のことを思い返すと、好きにはなれませんよね。散々人格攻撃されたわけですから。弁護士と名誉毀損で訴えようかと相談もしましたから。
「お友達ばっかり」の教育再生実行会議
――第2次安倍内閣の教育再生実行会議については、どのように思ってらっしゃいましたか?
前川 メンバーは安倍さんと下村(博文)さんのお友達ばっかり。教育政策を審議する場としての専門性も客観性、中立性も全くないですよね。狙いは第1次安倍内閣の教育再生会議の提言を実行に移そうとするものですが、安倍さんが言う教育再生とは戦前回帰、明治20年代から昭和20年にかけての50年余りしか通用しなかったイデオロギーを復活させようという考え方ですから。
――2015年の9月18日には安保関連法案が参院で可決、成立しました。この時、前川さんは国会前のデモに足を運ばれたそうですが……。
前川 ええ、行きましたよ。参院本会議でいよいよ決まってしまうという最後の夜。私としては、一市民、一個人としての表現の自由を行使したいと思って参加しました。デモしたって何かが変わるわけじゃないって分かっていますよ。でも、私の心のバランスを保つ上でも「こんな法律は嫌だ」という言葉をどこかで発したいと思ったんです。
――一市民という言葉が出ましたが、ツイッターに「右傾化を深く憂慮する一市民」という名前の@brahmslover(ブラームス・ラバー)というアカウントがあるんです。前川さんはクラシック音楽でブラームスがお好きと伺いましたが、これは前川さんのアカウントではないかという噂もあるんです。
前川 ああ、それ私ですよ(笑)。
SEALDsの奥田愛基くんの名前を出して、内定式で挨拶した
――「右傾化を憂う」という意味では、次官をお辞めになってから行った名古屋の中学校での講演をめぐって、文科省から市の教育委員会に執拗な問い合わせがあった件。JC(日本青年会議所)出身の文教族議員からの介入があったなどし、前川さんもこれに批判をされていたと思います。JCという団体については、今どのように考えていらっしゃいますか。
前川 日本をファシズムに引きずり込む危険性があると思っています。もともと私は30代の頃、JCの人たちとはよく付き合っていたんです。教育に対しても非常に熱心な人が多かった。ところがいつの頃からか、単なる右翼団体になってしまったでしょう。右翼に乗っ取られたと言ってもいいかもしれない。
――一方で安保法制反対デモで前面に立っていた学生団体、SEALDsに対してはどう思われていましたか?
前川 頼もしいと思っていましたよ。リーダーの奥田愛基くんが国会の公聴会に参考人で出席したことがあったでしょう。あの時に「どうか政治家の皆さんも個人でいてください。個人としての考え方があるはずです。皆さんには考える力があります」ってね。いいこと言うなと思いましたよ。後に、人の紹介でお会いしました。
――そこまで感動したんですね。
前川 安保法制が成立した後、10月1日のことですが、この日は翌年に入省する新人の内定式。その夜に次官、審議官(註・いわゆる省名審議官)、要するに省のナンバー1と2が開会の挨拶と締めの挨拶をするんです。私はこの時文部科学審議官でしたから、確か締めの挨拶をしたと思いますが、「皆さん、個人でいてください」「組織の中に埋没するな。そう、SEALDsの奥田愛基くんがいいこと言っていたよ」って語りかけたんです。
――奥田さんの名前を出して、言葉を引用したんですか。
前川 そうそう。「組織に過剰適応しないで、自分自身でいるということが大事です」ってね。
次官になって、面倒臭かった仕事
――まさに「異色の官僚」のエピソードだと思いますが、その挨拶の翌年、ついに次官になられ文部科学省の事務方ナンバー1の立場になられます。安倍政権下での次官就任。その時のお気持ちはどんなものだったのでしょうか。
前川 早く辞めたかったですね(笑)。というのは、この人に文化勲章を出せとか、いろんな政治家から嫌な話が来るわけです。次官だからと言って勲章を決められるわけじゃないですからね。まあ、これが面倒臭くて……、苦痛でした。ただ、私を次官にした大臣というのが馳浩さん。馳さんとはとても仲が良かったんです。
――馳さんはどんな印象の政治家でしたか?
前川 私と波長の合う方でした。馳さんがある時ポロッと言ったのを覚えていますが「政治家としてのライフワーク、目標は日朝国交正常化だ」って。朝鮮学校にも本当はとても理解のある方です。ただ、安倍政権の中にいる限りはそんなこと表立って言えないわけで、朝鮮学校への補助金見直し通知も馳大臣の下で出しているんです。あれはご本人としては出したくなかった通知だと思いますよ。
――仲がいいというのは、例えばどういうことなんでしょうか。
前川 先だって私が東大で講演していたら、後ろの方に馳さんが立って聞いているんですよ。私は例によって言いたいことを喋っていたんですが、あやややや、これはまずいと、急に舌鋒が鈍くなりましてね(笑)。
――後に加計学園問題について首相補佐官から呼び出しがあったことなどを発言し、安倍政権の暗部を告発することになりますが、当時から抗議して辞めたいと考えることはなかったのですか?
前川 加計学園問題に関わっている途中から、職員の天下り問題が火を吹いてしまった。これは省のトップとして私が責任を取らなければならない問題だと考えていました。だから、加計問題のことで抗議の辞職というようなことを考える余裕はありませんでしたね。2016年11月の終わり頃からは、天下り問題の傷口がどんどん広がって行ってしまい、正月休みに色々と考えた結果、これはもう引責辞任しかないなと心に決めたんです。
どうして辞任挨拶メールが長文になったのか
――次官をお辞めになるにあたって、文科省の職員全員にメールを出されています。そこには「ひとつお願いがあります。私たちの職場にも少なからずいるであろうLGBTの当事者、セクシュアル・マイノリティの人たちへの理解と支援です。無理解や偏見にさらされているLGBT当事者の方々の息苦しさを、少しでも和らげられるよう願っています」ということも綴られています。通常のお別れの挨拶とは違う文面にも感じますが、どういう気持ちでこれを書いたのでしょうか。
前川 これは幼少期の思い出でも語ったことですが、私は転校生で不登校になったこともありますし、同じ境遇のクラスメイトに出会ったこともありました。ですから少数派の立場にいて悩んでいる人に気持ちを寄せていかなければ社会は成り立たないと考えているんです。それは子どもたちの世界でも同じです。ですから、文部行政に関わる職員にはこのことを胸に、職務に当たって欲しいという願いを込めたんです。
――文面は相当練られたように感じますが。
前川 私は2017年の1月20日に辞めたんですが、その前日、19日の朝にNHKが「前川次官辞任」って流したんですよ。それで次官室の前の廊下にはメディアがずらっと居並んで記者会見を求めていたんですが、松野博一大臣が私をかばうおつもりで「前川は今日、記者会見する必要はない。説明責任は自分が負う」と。それで次官室に一日中こもることになったんです。通常、次官が交代する時には課長補佐以上を講堂に集めて新旧次官挨拶の行事があるんですよ。しかし、引責辞任の状況ではそれもできない。その代わりにメールを出そうと考えたんです。最初は短かったんですけど、次官室に閉じこもっていて時間がたっぷりあったので、これも書こうかな、あれも書こうかなと、書き加えているうちに長文になってしまったのです。
――異様な状況の中で、一日中次官室にこもる官僚人生の最後というのは想像もしていなかったのではないですか。
前川 そうですね。次官室と大臣室って廊下に出なくても行き来できるよう繋がっているんですね。それで大臣室には専用トイレがあるんですが、松野大臣がいいよって言ってくれて、その日は大臣専用トイレを使っていました。トイレ行きたくなったら「大臣、すみません」ってお声がけして(笑)。
したくない仕事も随分させられたけど
――次官をお辞めになった後、読売新聞の「出会い系バー通い」報道がありました。「週刊文春」はこの時出会っていたA子さんに接触して前川さんとの交流を語っていましたが、この記事を読んでどう思われましたか。
前川 お会いした頃の彼女は、もうその日その日が楽しければいいみたいに漂っている感じでした。類は友を呼ぶで「まえだっち(註・前川氏の仮名)だったら、おごってくれるよ」って、5、6人連れてこられたこともありました。これはたかられてるだけじゃないか、まずいぞこれじゃ「ギャル版こども食堂」じゃないかって思いましたね。それでも「やっぱり大学には行った方がいいんじゃないか」「せっかく学校に入ったんだから勉強したら」なんて私はずいぶん説教じみたことも話していました。のちに彼女は自分でアパレルの販売員の仕事を見つけてきてね。仕事を始めたって聞いて、いっぺんお店を見に行ったことがあります。ずいぶん恥ずかしがっていましたが、真面目に働いていてね。それっきり彼女とはお会いしていませんから、文春の記事を見たときは驚きましたね。よく探し出したな、と。
――記事によればA子さんのお母さんは「結婚したら前川さんを結婚式に呼びなよ」と仰っているそうです。
前川 ハハハ。本当にそうなったら、それはそれで面白いですけどね。
――長い官僚人生を引退されて1年が経ちました。振り返って、どんな役人人生だったと思いますか。
前川 そう悪くない役人人生だったと思いますよ。したくない仕事も随分させられたけど、やって良かったと思える仕事もありましたし。現在は講演や執筆、自主夜間中学のボランティアなどで結構忙しくしています。役人時代にはできなかったことなので、楽しんでやってます。ただその傍らで、人生にifがあったとすればって考えるんですよ。やっぱり高3の時に数Ⅲを諦めずに頑張って、宇宙物理学者を目指せばよかったかもしれない。小説も書きたかったし(笑)。そんな野望を抱く人生も悪くなかったのかなって、今では思っています。 (辻田 真佐憲)
まえかわ・きへい/1955年生まれ。1979年文部省入省。2017年1月、文部科学事務次官を辞任。近刊に『面従腹背』(毎日新聞出版社)。