2018年6月13日水曜日

「疑わしきは罰せず」の筈 袴田さん再審請求 

 日本の刑事裁判では、999%が有罪となります。それに対してアメリカでは70%程度ですが、それでも無数の冤罪事件が発生しています。
 有罪率999%というのは要するに起訴されれば、まず間違いなく有罪になるということです。別に日本の検察の立件が緻密であるということなどはないので、これは要するに司法が検察の主張を丸のみにして判決を下しているということです。実際に判検交流制度(裁判所と検察庁において、一定期間、裁判官が検察官になったり、検察官が裁判官になったりする人事交流制度)が行われていて、あたかも一体感を持っているかのようです。
 その結果膨大な冤罪が事実として発生している筈ですが、裁判所はまず再審の開始を認めないので表面化することはありません。それは闇に埋もれたままになっています。
 
 日本は、国連の人権委員から中世の司法と揶揄されました。人質司法をはじめ代用監獄制度など様々あります。
 何よりも立件する際に検察は全ての証拠を集めますが、裁判に当たっては被告に有利な証拠は隠し、不利な証拠をのみ提示します。この不正はいくら指摘しても検察は改めようとしません。はなはだしくは証拠の捏造や証人への威圧までやります。
 
 静岡地裁が決定した袴田巌さんの再審開始を東京高裁が取り消したことに対して、東京新聞が「疑わしきは罰せずだ」とする社説を掲げました。
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社説再審への道 「疑わしきは罰せず」だ
東京新聞 2018年6月12日
 五十二年前の強盗殺人事件で死刑が確定していた袴田巌さんの再審開始決定を東京高裁が取り消した。血痕のDNA型への評価の違いだ。司法は当時の捜査手法への厳しい目があるのを知るべきだ。
 袴田さんの事件は長く冤罪(えんざい)との疑いの声があった。一九六六年に起きた静岡県の旧清水市で一家四人が殺害された事件だ。
 再審開始を認めない決定に、十一日の東京高裁前では「不当決定」と書かれた垂れ幕が掲げられた。
 
 冤罪はまず犯人とされた人に罪をかぶせる不正義がある。同時に真犯人を取り逃がす不正義を伴う。この二重の不正義がある。
 元裁判官の木谷明氏の持論である。裁判官時代に約三十件もの無罪判決を書いた経験を持つ。一件を除き検察は控訴すらできなかった。その木谷氏の著書「『無罪』を見抜く」(岩波書店)にはこんなくだりがある。
 <冤罪は本当に数限りなくある、と思います。最近、いくつか有名な冤罪事件の無罪判決が報道されていますが、あれはあくまで氷山の一角ですよ。(中略)『なぜ、こんな証拠で有罪になるのだ』と怒りたくなる判決がたくさんあります
 
 袴田さんの事件では一審で死刑判決に関わった元裁判官の熊本典道氏が「無罪だと確信したが、裁判長ともう一人の陪席判事が有罪と判断し、合議の結果で死刑判決が決まった」と二〇〇七年に明かした。熊本氏自身も判決言い渡し後に、良心の呵責(かしゃく)に耐えかねて裁判官を辞職したとも語った。
 「疑わしきは被告人の利益に」という言葉は刑事裁判の原則で、再審でも例外ではない。ところが日本の検察はまるでメンツを懸けた勝負のように、再審開始の地裁決定にも「抗告」で対抗する。間違えていないか。再審は請求人の利益のためにある制度で、検察組織の防御のためではない
 
 かつ、検察はかき集めた膨大な証拠も不利なものは隠したりする。今回も新たに開示された取り調べ録音テープから、捜査員が袴田さんをトイレに行かせず、取調室に持ち込んだ便器に小便をさせた行為などがわかった
 
 着衣に付いた血痕のDNA型の判定などで地裁と高裁の判断は分かれた。だが、問題なのは再審制度の在り方にもある。無実の人を救済せねばならないのは検察も同じではないか。最高裁では死刑囚の再審という究極の人権問題にも道筋を示してもらいたい。