東京新聞の「シリーズ <もうひとつの沖縄戦>」(5)を紹介します。最終回となります。
※ 原記事にアクセスすれば当時の写真もご覧になれます。
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<もうひとつの沖縄戦>(5)
12人の死 伝えたい
東京新聞 2018年6月4日
沖縄戦の後、捕虜として米国ハワイの強制収容所に送られた三千余人のうち、十二人の沖縄県民が病気などのために収容先で死亡したが、その歴史を知る人は沖縄でも少ない。強制収容所を経験した元嘉手納(かでな)町議の渡口彦信(とぐちひこしん)さん(91)は、沖縄の戦争捕虜の歴史を後世に伝えるため、遺骨探しなどを続けている。
活動を本格化させたのは一九八〇年初め。ハワイの日系議員や弁護士の力を借りて調査を始めた。八二年に死亡証明書が地元保健局に残っていると分かると、死亡者が埋葬されたという墓地にも行った。だがそこに遺骨はなかった。
捕虜の帰国事業を担当した厚生労働省は「遺骨は(ハワイからの)帰国船が神奈川に着いた四六年、米側から返された」と説明する。しかし、返還されたはずの遺骨が、その後どうなったのかは分からず「調査を継続中」と言うだけだ。
強制収容所の歴史は日米の間でずっと忘れ去られてきた。だが近年、変化が見られるようになった。戦後に閉鎖され、日系社会でも「抑留された恥の跡」と語られなかったホノウリウリ収容所に目が向けられるようになったのだ。
きっかけは九八年、米国のテレビ局がホノルルの日系人団体「ハワイ日本文化センター」に、ホノウリウリの調査協力を依頼したことだ。センターのボランティアで日系三世のジェーン・クラハラさんやベッツィー・ヤングさんらが跡地を歩き、二〇〇二年に森の中から石垣や収容所の基底部などの遺構を発見した。
オバマ大統領(当時)が「戦時下に自国民を強制収容した負の歴史」を伝える史跡として公式認定したのは一五年のことだ。こうした機運の中で、収容されていた日系人だけでなく、沖縄県民の捕虜への関心も向けられるようになった。
渡口さんは昨年六月、初めてホノルルの寺院で帰国できなかった十二人の慰霊祭を営んだ。当時十五歳で学徒兵として収容された元衆院議員の古堅実吉(ふるげんさねよし)さん(88)や沖縄に住む遺族も参加し、地元のハワイ沖縄連合会が協力した。
米国立公園局の案内で渡口さんや古堅さんらはホノウリウリ収容所跡を訪ねた。「沖縄に帰れなかった人の無念は…」。遠い苦難の日を思い出し、二人は戦没者の鎮魂を祈って跡地に花びらをまいた。
少なくなった捕虜の体験者たち。古堅さんは言う。「私たちは確かにあの時代、ハワイの収容所にいた。それは米国の沖縄占領政策にもかかわっていたはずなんです」と。「だから体験を語っておかなければならない。三千人余の一人の捕虜として」 (編集委員・佐藤直子)
=おわり