2018年6月25日月曜日

25- 前文科事務次官・前川喜平氏にインタビュー(2/3)

 文春オンラインが前文科事務次官・前川喜平氏の「履歴書」について150分にわたってインタビューしました。
 
 今回は3回シリーズの第2回目で、大学時代のことから、文科省に入り2004年頃(第一次安倍政権が出来る前)までの段階で出会った人たちの様々なエピソードなどが語られています。
 聞き手は『文部省の研究』の著者・辻田真佐憲氏です。
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前川喜平 前事務次官が語る「思想的には相容れない、加戸守行さんのこと」
前文部科学事務次官・前川喜平 2万字インタビュー No.2
辻田 真佐憲 文春オンライン 2018年6月22日
文部行政のトップを司った前川喜平・前文部科学事務次官。その異色の官僚ぶりを150分にわたってお伺いしました。成績優秀にもかかわらず、なぜ「三流官庁」と呼ばれた文部省に入省したのか? 臨教審、日教組との和解の舞台裏とは……。文部官僚の貴重な回想の数々を『文部省の研究』辻田真佐憲さんが聞き出します。(全3回インタビューの2回目)
仏陀が何を語ったのか知りたかった大学時代
――東大法学部を卒業して文部省に入るわけですが、大学には6年いたんですね。
前川 留年を2年しましてね。だから私は教育は6・6・6制がいいって冗談で言っているんです。小学校6年、中高6年、大学6年。
――まさにそれを実践されて……。
前川 大学時代、高等遊民に憧れてたんですよ(笑)。それで全然、大学の勉強しない時期が3年くらいあったんです。仏教青年会に入っていて、仏教の本を読んだり、お寺めぐりをしたり、仏像見学に行ったりしてました。
――気づいたのですが、前川さんと麻原彰晃は同じ1955年生まれなんですね。
前川 そうなんですか? 
――当時の大学では、怪しい宗教の勧誘などの動きは見られましたか?
前川 キャンパスというのは宗教勧誘で充満しているところがありますからね。統一教会系の原理運動、崇教真光、歩いていれば声をかけられました。創価学会も東洋思想研究会みたいな名前で人集めをしていました。でも私はそういうものに興味がなくて、ただ仏陀が何を語ったのかを知りたいだけで。中村元、増谷文雄の本をずいぶん読みました。当時、座禅もやってましたよ。とても悟りを開くところまでいけませんでしたけど(笑)。極めて軟弱なテニスサークルにも入っていたので、悟りとは程遠かったと思います。
――テニスサークルですか。
前川 麻布の中高でめちゃくちゃ弱いラグビー部に入っていたんです。で、そのまま東大の運動会ラグビー部に入ってみたんですが、相当厳しくて、焼肉をさんざん奢ってもらったのに、辞めますとも言わずにトンズラしちゃった。あれは今でも申し訳ないと思っているんですけれど。それで、一緒にトンズラした友人がテニスサークル作るというので入りました。
 
文部省に入った理由
――かなりよい成績で国家公務員試験に合格したそうですが、あえて文部省を選んだ理由は何だったのでしょうか。
前川 私が文部省に入省したのは1979年、昭和54年ですけど、高度成長が終わり、これからは社会が成熟していく時代という雰囲気がありました。だから、経済官庁に行く気はなかったんです。金とかモノではなくて、人の心や人そのものに関わる行政に魅力を感じていた――まあ、美しく言えばそういうことかな。
――美しく言えば、ですか。
前川 ま、実のところあまり明確な意識を持って文部省に入ったわけではないんですよ。なんとなくです。
――人気官庁から声がかかってもおかしくない成績だったそうですが。
前川 そもそも官庁訪問したのがすごく遅かったんです。あれ、みんな行ってたの? みたいな。それでいくつか回りはしましたけど、教育や文化を扱う文部省がいちばん性に合っているなと。
 
文部省は「主君と家来」の文化というか
――実際に入省されての文部省の印象はいかがでしたか?
前川 いや、入る前からひどく保守的なところだろうとは思ってました。扱う分野は教育、科学、文化と大事なものばかりですが、役所自体が後ろ向きの姿勢だと感じていました。私は教育はもっと自由でなければいけないという信条でしたが、文部省は教育に対する国家の支配を強めようとしていましたから。これは自分の思想と、組織の論理は食い違うだろうなと覚悟してました。
――組織の論理という面では、他省は「上意下達」「上の命令は絶対」という雰囲気もあると思いますが、文部省はいかがでしたか。
前川 同じですよ。文部省はよく言えば家族主義的な組織、悪く言えば封建的なイエ制度みたいな感じです。主君と家来というかな。上司は自分の家に部下を呼んでご飯を振舞ってくれる、部下たるもの上司の引っ越しは手伝うもの。昔の村社会みたいな行動様式が残っていました。それがはっきりわかったのは2001年に科学技術庁と文部省が一緒になったときですね。科技庁はドライ。もともとが寄せ集め、霞が関の血筋の違う官僚たちが集まったところですから、明治4年以来続いてきた文部省の文化とは大違いでした。田舎と都市の違いのようなものを感じましたね。
――最初の配属は官房総務課。当時の大臣は内藤誉三郎(たかさぶろう)さんですね。
前川 そうです。文部省OBの政治家でした。内藤さんは戦後の教育行財政の基礎を作った功績の大きい方で、私はのちに財務課長として義務教育国庫負担制度も担当しましたから、まさに直の後輩にはなるんです。ただ「タカ三郎」というお名前だけあって、相当なタカ派であったことは間違いありません。
――直接お話をしたことはありますか?
前川 まだ下っ端ですから、直接謦咳に触れるようなことはありませんでした。タカ派的な保守的なことを言うというよりは、少し支離滅裂なことをおっしゃっていた記憶はありますが。
 
臨教審と加計問題
――入省後の文部省にとって大きな出来事といえば、中曽根康弘首相が主導した教育諮問機関、臨教審の設置だと思います。前川さんはどのように関わっていましたか?
前川 臨時教育審議会は1984年から87年。昭和59年から62年までの3年間ですよね。私は82年から84年までイギリスに留学していたので、帰国したら臨教審が始まっていた。私はそのとき高等教育局にいたんですが。
――高等教育局ではどのようなお仕事を?
前川 高等教育企画課の法規係長兼企画係長です。臨教審に関しては、高等教育を担当する第四部会と省との連絡役をしていました。臨教審は文部省と相当やりあったと言われていますが、第四部会に関しては協調的で、その成果として作られたのが大学審議会。これはもっと独立性の高い組織にするはずだったのですが、それができないまま大学行政は官邸に牛耳られ、現在の加計問題を起こすところまできてしまったわけです。大学審議会の設置には高等教育局の大崎仁局長、高等教育企画課長の遠山敦子さん、大学課長の佐藤禎一さんの「黄金トリオ」が真剣に考えて取り組まれていました。
――ちなみに当時の文部大臣は森喜朗さんでしたが、印象はいかがでしたか。
前川 あまり近くまで寄ったことがないので印象といっても、まぁラグビーで早稲田入った人でしょ、ぐらいな感じでした。森さんはワンマンだったから、秘書官が体を壊してしまったことがありましたね。
 
パーティー券と裏金の思い出
――森さんの後任が塩川正十郎さんですね。
前川 私はその頃、宮城県の教育委員会に2年出向して、その後外務省の研修所に行って、それから3年間フランスのユネスコ代表部で仕事をしていたんです。5年間以上、文部省を離れていた時期ですね。
――すると、1989年のリクルート事件で高石邦男前文部次官が逮捕されたときはフランスですか?
前川 そうでしょうね。ただ、高石さんが国政選挙に出ようとしていた時のことは覚えています。宮城県にいたときに、「高石さんが衆院選に出るのでパーティー券を買え」って、教育委員会に文部省から言ってきたんですよ。教育長と教育次長に相談したら、「何もしないわけにはいかんだろうな」ってことになって、結局私含め3人、ポケットマネーを出して買いました。あれはひどかったなあ(笑)。文部省内でも各課ごとにプールしていた裏金から捻出してパーティー券を買っていたんじゃないかなと思います。カラ出張やカラ会議で使ったことにして貯めた「裏金」を管理するのは、各課の庶務担当の補佐の仕事でした。
――裏金といえば、いわゆる「官官接待」にも使われたわけですが。
前川 ええ、私も大蔵省の主計官の接待をしたものです。
――大蔵官僚というのは、やはり他省の官僚とは違うものなんですか?
前川 やっぱり、大蔵省様様って感じでしたよ。とにかく主計局の主計官だとか次長は予算をつけてくださる大事な方だと。
 
加戸さんは私の結婚式で2曲歌ってくれました
――リクルート事件の話に戻りますが、このときに官房長だった加戸守行さんも連座してお辞めになっています。加戸さんはその後、愛媛県知事となり加計学園獣医学部の今治市への誘致を進めていたとして、国会の参考人招致で前川さんと再び顔を合わせることになりますね。
前川 実は加戸さんは私が文部省に入って間もない頃の上司なんです。私は官房総務課に配属されたんですが、その後総務課長に来られたのが加戸さん。私の結婚式で歌を2曲歌ってくれました。
――あっ、そうなんですね。ちなみに何を歌われたんですか?
前川 全然覚えてないんだけど、同じく元文部官僚の寺脇研さんの結婚式では「芸のためなら 女房も泣かす〜」っていうあの歌、『浪花恋しぐれ』を歌ったそうです。なんでこれを歌ったんですかね(笑)。
――加戸さんはどんな上司でしたか?
前川 加戸さんから建国記念の奉祝式典に潜入してこいと「密命」を帯びたことがあるんです。式典に文部省が後援名義を出すので、様子を見て報告しろと。それで行ってみると、のっけから紀元節の歌をみんな起立して歌っているわけです。「雲に聳ゆる高千穂の 高根おろしに草も木も」って。講演も右翼チックなものばかり。まさに紀元節復活みたいな強い雰囲気があって、これは参ったなと加戸さんに報告したら「そうかそうか、よかったよかった」って言うんです。加戸さん、右翼なんですよね。総務課長室に建国記念の日のポスター、ダーンと貼っていたのもそういうことかと。だから、思想的には私とは相容れないところがあるんです。
 
与謝野文部大臣と日教組とサリン事件
――94年に自社さ連立政権である村山富市内閣が発足し、39歳の前川さんは与謝野馨文部大臣の秘書官を務めることになります。村山内閣は文部省と長年にわたって対立してきた日教組との「歴史的和解」を果たすことになりますが、どのように関与されていたんですか?
前川 私自身は、その交渉の中身にはそんなに関与していません。後から知ったことですが、村山さんが組閣にあたって与謝野さんに「日教組との関係を改善してほしい」という密かな指示を出していたそうです。それで与謝野さんは当時の日教組の横山英一委員長と極秘に何度かトップ会談をしていました。メディアに知られないよう、ホテルの一室を借りてやっていましたが、私は部屋の外で待機していましたし、具体的にどんな話をしたのかなどは聞いていないんです。95年に日教組の運動方針がガラッと変わり、文部省との対立点を表に出さなくなったのは大きな転換でしたよね。反対、粉砕、阻止ではなく、立場は違うけれども話し合える関係を作りましょうと。その証として、与謝野さんの後の島村宣伸文部大臣が中央教育審議会の委員に横山英一さんを任命したことは画期的なことでした。
――この95年には地下鉄サリン事件が発生します。霞ヶ関駅もその現場となりましたが3月20日当日、前川さんは普通に通勤されていたんでしょうか?
前川 この日の朝は春高バレーの開会式があったと記憶しています。それで、与謝野大臣が挨拶をするので同行して代々木体育館にいたはずですが、警護官の無線に地下鉄で大事件が起きていると報告が入り、それで事態を知ったんです。サリンだと聞いたときこれはオウムだろうと直感しました。
 
中川昭一さんから直接電話がかかってきた
――95年は他にも、日本会議や新しい教科書をつくる会といった団体ができた年でもあります。そういったものが前川さん自身のお仕事に影響してくることはありましたか。
前川 私自身は直接関わる担当でもありませんでしたが、あれはいつ頃だったかな、95年より後のことだと思いますが、中川昭一さんからいろんな働きかけを受けました。中川さんは教科書議連で安倍晋三さんとも親しかったでしょう。「慰安婦問題を中学校の教科書に書くなんてとんでもない」と、散々言っていましたよね。私に電話までかかってきましたから。そういうプレッシャーはだんだん強くなってきている空気はありました。
――右側からの影響力を感じはじめたのは、90年代後半ということですか。
前川 文部行政に対する右側からの圧力みたいなものは常にあったんです。ただ、圧力があっても、教育政策が決定的に右に振れることはなくて、自民党の中にもそれを真ん中の方に戻す力はあったんです。ところが私の感覚でいうと森喜朗内閣、2000年の教育改革国民会議のあたりから強く右に行きはじめる。つまり、教育基本法の改正だとか、道徳の教科化というものが打ち出される時期ですね。
――教育改革国民会議の報告を読むと、結構過激なことが書かれていますよね。
前川 18歳になったらみんな奉仕活動させろとかですね。修身や教育勅語の復活を唱えるような、教育を戦前回帰させる動きというのは戦後、間欠的に表に出てくるんですね。中曽根さんの臨教審だって、ご本人としては教育基本法改正のための布石だったでしょうし、森さんの教育改革国民会議だって同じ。
――その流れは2006年に発足した第1次安倍内閣の教育再生会議にもつながっていくと思いますが、こうした教育をめぐる動きが右から吹き上がっていく状態をどのように感じていましたか。
前川 これは危ないなと思っていました。森内閣の教育改革国民会議もそうですが、教育再生会議は閣議決定で作った機関なんです。総理に近い人ばかりで構成されている。そこで中央教育審議会の頭越しに議論が行われるようになってしまった。中教審はそれなりにさまざまな分野の委員から構成されているので、極端な方向へ行くことはありません。しかし、教育再生会議には政治家の意向がストレートに反映されるので、学問の自由や表現の自由が保障されず、国家権力がそこに直接介入できてしまう。文科省の行政というのは、人間の精神的自由権に関わることが多いわけで、これでは学問の自由や教育の自主性が危うくなると危機感を強く持ちました。
 
省庁再編 至上命題は「とにかく分割されないこと」
――教育改革国民会議と教育再生会議の中間ぐらいの時期になりますが、2001年には省庁再編があり、文部省と科学技術庁が統合し、文部科学省が誕生します。
前川 省庁再編については、かなり初期の頃から関わっていました。与謝野大臣の秘書官を退任した95年から96年にかけて、教育助成局企画官の仕事と並行して大臣官房に新たに設けられた行政改革推進室の室長をやれと言われたんです。これは当時の橋本(龍太郎)内閣の行政改革会議に対応するための官房長直属の組織で、省庁再編について大きな戦略を練るところでした。文部省の至上命題はとにかく、分割されないようにすること。それで、一番競合していたのが科学技術庁でしたから、ここと統合する道しかないだろうと。
――かなり早い段階から戦略的な対応をしていたんですね。
前川 そのときに、原子力関係はどうするんだという話にもなったんですが、これは当時の佐藤禎一官房長と、通産省の官房長とが話をつけて、経産省が所轄するようになったんだと思います。
――橋本行革で文部省に関わりがあったもう一つ大きなことは、国立大学の法人化です。
前川 佐藤官房長はもともと国立大学法人化論者だったんです。国立大学を法人化したほうが大学の自主性、自律性を高めることができるはずだ、文部省の付属機関の形で置いておくほうがおかしいんだ、というお考えだったと思います。
 
文科省でいちばん目立つ局は?
――ところが2004年に国立大学法人化が実施されたあと、大学関係者が口々に言うのは「年々予算が減らされて研究もできないし、環境も悪くなっている。その割にはカネを文科省が握っていて、口を出されて困っている」ということです。
前川 いや、もう本当にそれはごもっとも。行革という観点からは、自由を与える代わりに財源を絞ることはセットではあった。これまでずっと各国立大学の運営費交付金を毎年1%減らしてきているわけで、国立大学の基盤的経費の少なさはもう明らかに限界に達していますよ。資金獲得のために研究競争に駆り立てられる部分が大学に出てきてしまったのも、そこに原因があります。これは大学行政としては非常に歪んだ形であって、やはり運営費交付金をちゃんと保障するようにしなければならないと思います。これは文部省、文部科学省がきちんと財務省と対決してこなかったことに問題があったと思います。
――財務省では主計局が看板局であるように、文科省にも看板局はあるのでしょうか。
前川 どうでしょう、初等中等教育局が一番目立つ部署であることは間違いありません。ここは国会で質問されることが一番多いんです。世の中の関心も高校以下の学校については非常に高いですし、事務次官になる人もこの初中局長経験者が多いのは事実です。
――前川さんはよく初中局の出身といわれますが、高等教育局の出身でもありますね。
前川 高等教育局は係長で2年勤めただけです。ここの局長から次官になる人も結構いるんですよ。加計問題で高等教育局長が国会答弁する機会も多くなり、現在は初中局より高等教育局が目立っているというのはなんとも皮肉な話ですが。