2018年6月2日土曜日

<もうひとつの沖縄戦>(3)(東京新聞)

 東京新聞の「シリーズ <もうひとつの沖縄戦>」(3)を紹介します。
※ 原記事にアクセスすれば当時の写真もご覧になれます。
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<もうひとつの沖縄戦>(3)
        敗戦 帰れない日々
東京新聞 2018年6月1日
 沖縄県民の捕虜が集められた米国ハワイの収容所で、十八歳未満には軽作業が割り当てられた。沖縄からの輸送船で十六歳になった元衆院議員の古堅実吉(ふるげんさねよし)さん(88)に命じられたのは、指揮班のお使い役や捕虜の起床係だった。
 
 戦争の終結も収容所で知った。監視役の米兵が部屋の壁をたたき、金属製の食器をぶつけ合って歓声を上げている。「何があったのか」と古堅さんが尋ねると、「日本が戦争に負けた」と教えてくれた。
 ポツダム宣言の受諾によって日本は無条件降伏を受け入れ、アジア全域での戦闘も終わった。だが古堅さんに悔しさはなかった。戦場からずっと「いつ殺されるか」とおびえ続けた毎日。「これで命拾いした」という、ほっとした気持ちが勝ったという。
 一九二九年、沖縄本島北部の国頭村安田(くにがみそんあだ)の貧しい家に生まれた古堅さんの少年時代は、命さえもが「お国のため」にあった。四四年に当時の最高学府だった沖縄師範学校に入学したものの、授業は一学期で終了。防空壕(ごう)掘りや陣地構築の毎日に変わった。沖縄戦では二等兵扱いの学生部隊「鉄血勤皇隊」として、日本軍司令部壕の発電用冷却水の運搬を任された。
 戦争は惨めだった。足に被弾し「アンマー(お母さん)」と叫び絶命した先輩。至近弾で即死した同級生。最後は道に転がる無数の死体に胸を痛めながら、敗走するしかなかった。
 
 「君たちは戦後の沖縄を担ってほしい」。この戦争を生き延びることなど考えもしなかったが、師範学校の校長が戦場での別れに残した言葉を、収容所で反すうした。「これからどう生きるか」を考え始めた。
 日本の敗戦は古堅さんら沖縄の捕虜たちに「帰国」の夢をもたらした。四五年秋からフィラリア菌の保持が疑われる捕虜らが沖縄に送還されるようになった。だが他の捕虜に帰還指令はない。さらに一年以上、収容所を転々としながらハワイに留めおかれた
 そのうち現地の沖縄出身の日系人の中で「沖縄から捕虜が連れられてきている」という情報が伝わり、監視兵に賄賂を渡して食料などを差し入れる人も現れた。古堅さんにも捜し当てた親類が、弁当や英和辞典を届けに訪ねてくれた。
 
 それでも帰れない日々はつらい。故郷での別れ際に「命(ぬち)どぅ宝ど(命は宝よ)」と言った母を思った。沖縄から戻った軍用機の掃除をしながら「ここに隠れていたら沖縄に帰れるんじゃないか」と涙ぐんだ。ようやく帰国の途に就けたのは四六年の秋を過ぎてからのことだった。 (編集委員・佐藤直子)