「事実を頑なに認めない」安倍総理を支える力の正体
モリカケ問題を再考する
山下 祐介 現代ビジネス 2018年6月23日
首都大学東京教授 社会学者
真実は明らかなのに、総理だけが認めない
前編「安倍政権が『終わる瞬間』はいつなのか?~森友調査報告書を精読する」で確認したように、モリカケ(森友学園、加計学園)問題は、構造としてはいずれも、安倍総理のまわりの人物が政府案件に関わっている事実が明らかとなっているのにもかかわらず、本人だけが一人、「真実は明らか」だと無関係を装っていることにつきる。
私も含め、国民のみなが「まさか」と最初は思ったが、これだけ色々なことが次々とあがってくると、もはや安倍総理が「関係ない」と論証することの方が難しい。
一国の首相が、嘘や言い逃れを繰り返しているとしか思えない事態が生じており、冷静に見れば、あとは総理が認めるかどうかというところまできている。
あまりに粘るので、私たちもだんだんと「もういいんじゃないか」と、そういう感じになっているが、現実はそういうことだ。ふつうはあきらめるものを、ただしつこく粘っているのにすぎない。
もちろん法的には問題はないのだろう。しかし実際に総理の「関わり」はあるので、次々と新しい事実が発覚し、消しても消しても何度でも火の手があがるのであった。
これでは国会はいつまで経っても正常化しない。総理は早く事態を収拾しなくてはならない。
この二つの事件、安倍総理はもちろん、自分で「こうしろ」などと直接の指示はしていないのだろう。
しかし法的に問題がないから、政治責任が問われないことにはなるまい。法を作るのは国会である。
その国会議員であり、行政府の長でもある内閣総理大臣が、自分だけが知る法の抜け穴を知り合いだけ通していたのだとしたら、ゆゆしき問題だからだ。
こんな問題が発覚すれば、国会の運営などまともにやれるはずがない。
総理が言っているのはこういうことだ。
「私は潔白だ。色んなことは出てきたけど、みなさんは信じてくれるよね」と。
ある種の甘えのような、そういうメッセージになっている。
だが例えば2015年2月25日に総理が加計理事長と会い、「そういう獣医学部はいいね」といったという話も、総理は明確にその会見を否定できないままだ。
本当に会っていないなら、この日の自身の記録を公開して「こういうスケジュールでした」とか、あるいは友人である加計氏の方のスケジュールを出してもらって「この日は彼は東京に行っていない」とか、そういう対応ができるはずだ。
そういうこともしないで、ただ「私を信じろ」という方が無理な話なのである。
とはいえ、「甘え」はやはり、甘えさせる者がいるから生じるのでもあった。
では何が総理のこの甘えを実現させているのか。後編ではこの問題について考えてみよう。
なぜ安倍総理は政権の継続に固執するのか
まずは前編の最後に示した一つ目の問い、なぜここまで安倍首相は自己の政権に固執するのかについて考えてみよう。もしかするとこれが最大の謎かもしれない。
安倍政権で成し遂げたこととは何か。
考えてみればどうにも見あたらない。何を目指しているのか、それもよくわからない。
だとすればこういうことなのかもしれない。
このままではアベノミクスは失敗でおわる。東日本大震災の復興も失敗した。地方創生もおかしなことになっている。
色んなことをやったが、結局長くやっただけでみなうまくはいっていない。総理はそれに対して未練があるのではないか。
だが私は思う。総理は十分すぎるとほどやった。小泉純一郎政権をこえ、歴代の名だたる首相よりもずっと長く政権を安定的に保ったではないか。
心残りの憲法改正もこのままでは形だけになる。本当にこの国のことを考えるのなら、後輩に任せて外から見守る、そういう立場になった方がよいはずだ。
そして別に総理さえ辞める覚悟を決めれば、今退いても、ちっとも恥にはならない条件は揃っているのである。
あとはまわりがしっかりと「もうやめた方がいい」と後押しすれば、その花道は用意されるはずだ。なぜそれを自民党はできないのか。
前編の最後に示した第二の問い、なぜまわりはこんな内閣をいつまでも担いでいるのかに入っていこう。
自民党はなぜ安倍政権を退陣に追い込まないのか
いま冷静に見て、日本の政治も行政もまともに回っていないのは明らかである。
いったんこの流れを止めて体制を整え、真っ当なものに変える必要がある。
そして現政権ではもはやそれはのぞめないのだから、現在の首相の任期が切れる際に潔く勇退してもらい、新しい体制で立て直すのが政府自民党の本来のつとめだろう。
総理をきちんとまわりが説得し、総理を辞めさせる責任がある。
だが、その本来のつとめを果たさずに、自民党の政治家たちが安倍内閣とつかず離れずにいる理由は何だろうか。
それはやはり選挙だろう。
選挙を戦うにあたって、安倍総理を立てるのがよいのか、下ろすのがよいのか、自民党の議員たちは、ただそれだけの計算をしてものごとを考えているように見える。
実際、安倍内閣の支持率が下がっているとはいえ、それでもなお30パーセントを超えているのだ。安倍内閣にはまだついていくだけの価値はある。
他方で安倍氏を下ろせば、ここまでかばってきた自民党全体にとばっちりが及ぶだろう。
もはや安倍政権という御輿を下ろすに下ろせなくなってもいる。
「もうやめたらよかろう」と、言いたくても言えなくしてしまったのは、自民党自身なのである。
選挙を政治家が気にするのは当然じゃないかと、人は思うかもしれない。むろん選挙に通ってはじめて政治家になれるのだから、ある意味ではその通りだ。
だが、選挙は政治を実現するための手段であって、選挙が目的であってはならない。
あるべき政治家とは、あるべき政策、あるべき社会の姿を掲げ、その理念に国民に賛同してもらい、自分の力で選挙に勝って、その政治意志を実現していく、そういうものでなくてはならないはずだ。
そして政党というものも、あくまでそうした政治家の意志を政策へとつないでいくための手段なのである。
良いか悪いかは別として、例えば2007年の衆院選・郵政選挙がそうだった。
あれから10年経って、政治と選挙の関係がまったく逆転してしまっている。
選挙に勝つことが優先され、次の選挙に勝てるかどうかだけを気にして政策が選ばれている。
そして政党も、そうした選挙に勝てる(負けない)政策を取捨選択する機関と化し、個々の政治家の思いや意志とは別に、政党議員は選挙を牛耳る幹部が選択した政策にただ従うだけのマシンと化してしまっている。
筆者はこれを異様な状態だと分析する。
事実、この数年、安倍内閣で見てきたのは、政策が適正に議論できなくなっている国会や政党の姿ではなかったか。みなだんまりを決め、言いたいこと言った者がいじめられ、権力の外へと追いやられていく。
政党から排除されればもはや次の公認はえられないのだから、個々の議員としては政党に従わざるを得ないのだろうが、それでは何のための政党なのか。事態が選挙を通じて逆立ちしてしまっている。
選挙ばかりを気にしているのは自民党だけではない。
野党もまたいつも選挙を気にしており、今回のモリカケ問題の追及でも急な解散をどこかでおそれ、次の選挙にこの案件が有利に作用するのか、不利になるのかを極度に気にしているようだ。
もっとも、私にはどうしても、ここまでの事態に陥っているのはやはり野党の責任よりも、与党自民党の責任が大きいように思える。
例えば昨年(2017年)10月の衆院選のようなやり方が、「すべては選挙」の政治をつくってきたように感じるのだ。
政治を本来動かすべきは選挙ではない。選挙が終わったあとの議会であり、そこで行われる政策の議論であるべきだ。
そして政策の採用も、選挙結果による数の論理ではなく、集められた政治家たちのきめ細かな議論の積み重ねで進められねばならないはずだ。
自民党が、遮二無二選挙に勝つことだけを優先するやり方を採用したことが、結果として政治を、選挙に勝てるかどうかだけを軸にしたプロセスに転換してしまった。
その選挙を牛耳るトップに安倍総理がいる。
次の選挙に勝つか負けるか、そのために「アベ」というカードを残すか捨てるか。
政策や政治のためではなく、まして国民のためでもなく、自らの政治生命の持続可能性のためだけに、目を凝らしてじっと様子をうかがっているのが、今の自民党の議員の現実の姿にほかならない。
だがこれこそ政治の腐敗と言うべきものではないか。
なぜ国民は安倍政権を支持するのか
いま述べたことは、この国の国民のかなりの人々が同感できるものと思う。
ならば選挙で自民党ではなく、国民が野党に投票すればよさそうなものである。
だが現実にはそういうことは起きていない。それはなぜなのだろうか。なぜ国民はこんな自民党を許し、安倍総理に甘いのか。次にこの問いを突き詰めてみよう。
まず自民党や安倍政権への支持だが、国民の支持はそんなに肯定的なものではないことは、識者の見解が一致するところである。
国民が思っているのはこういうことのようだ。
「今の自民党は信頼できないが、かといって今の野党では政権を任せられない」と。そして多分こうも思っているのだ。「安倍政権は疑わしいが、他に任せるよりはましだろう」と。
実際にやってみなければわからないが、昨年10月の衆院選の結果を見ても、いま再び選挙をすれば、やはり自民党が圧勝するのではないか。
だが、この国民と安倍政権の奇妙な信頼関係こそが、安倍総理の甘えを許し、モリカケ問題のような事態を生じさせた原因なのである。
安倍総理の自信、国民への甘えは、国民自身がもたらしているものだ。そして事実、こうした不祥事が次々と生じてもなお総理の自信が揺るがないのは、それを支える国民の支持が依然としてある――そういう総理の読みが、ある程度現実を正しくとらえたものだからなのだろう。
そして自民党が安倍政権を下ろせないのもそこにつきるというべきだ。総理は明らかにおかしいが、ついていた方が選挙は安泰だと。
もちろん、安倍一強をもたらした背景には、政権が獲得した人事権(内閣人事局)や、小選挙区制の弊害などもあろう。正確にいえば、これらの改革が国民意識の変化と相乗的に影響して、こんな奇態な政権が実現してしまったのに違いない。
そして、こうした安倍一強体制を実現させるような政治改革・選挙改革がなぜ導入されたのかを考えたとき、どうも次のような皮肉な結論にたどりつくのである。
本来、これらの様々な政治・行政改革が目指したのは、小さな政府、二大政党、政治主導という理想だった。
それは、自民党と対等にやりあい、しばしばその力をしのぐ、そういうもう一つの政党を生み出すためであった。
具体的には、旧民主党が自民党に変わって政権を担当し運営し、そのことによって一大政党による支配を脱した政治過程の理想状態をもたらすためのものだった。
ところが現実は、いったんは政権交代を実現しながらも、結果としては目標を大きく外れ、二大政党どころか、自民党の一強政治が出現した。
しかもそれは政党内の議論さえ否定する、集権的な選挙ブレーン政治へと転換して、政治・政策の極端な劣化が生じてしまったのである。
政策の劣化とまでいうと、多くの人たちの反感を買うかもしれない。
しかし例えば現実に、東日本大震災・原発事故の被災地の復興や、地方創生の現場では、そうした劣化が止まらなくなっている。
復興政策については拙著(『「復興」が奪う地域の未来』岩波書店)に、また地域政策の現状については、近著(『「都市の正義」が地方を壊す 地方創生の隘路を抜けて』PHP新書)にもまとめたのでぜひご参照頂きたい。
そして政策の劣化はこうした地域政策にとどまらず、多くの識者が述べているように、国防にも労働政策にも現れている。
安倍政権の政策の柱であるアベノミクスももはやその失敗は明らかであり、国民が感じているほどにはこの政権の成果は評価されていないのだ。
みな自民党が好きなのだ
だが、こうした政治の劣化、政策の劣化にもかかわらず、国民はなぜこんな自民党を支持し、安倍政権を支持しつづけるのか。
私はこう見る。
みんな、この国の国民は、自民党が好きなのだ。
自民党は、55年体制以来、この国を支えつづけた政党であり、もはやこの国そのものと言っていい存在だ。
誤解を恐れずにいえば、戦艦大和のようなものである。
戦争は嫌いでも、戦艦大和はこの国を象徴するものであり、プライドでもあり、否定できないものだ。
だからそれに対し、民主党など新たな政党が出てきても、「それはちょっと違うよね」、「偉そうに、何様のつもりだ」と、どうもそういう感覚が出てきてしまうようなのだ。
しかもそこに、2010年代には国民の間で妙な不安が広がってしまい、寄らば大樹の陰で、自民党への奇妙な信頼感が醸成されてしまった。
そこには2011年東日本大震災・福島第一原発事故の影響もある。当時の民主党政権に震災・原発事故の責任が押しつけられ、その反動で自民支持が潜在的に強まってしまった可能性さえある。
それゆえ、自民党以外の政党は今、基本的には自民党には勝てない。
政策の良し悪しではない。その人の政治的資質でもない。ある意味で、自民党ではなければ選挙に負けるのだ。ともかく、選挙に勝つためには自民党から出る方が絶対的に有利なのである。
それに対し、自民党自身が多様な考えを包摂し、自由な議論を実現し、また「おかしなものはおかしい」という清廉さをしっかりと保っている限りは、政治はおかしなものにはならない。
しかしそれが、二大政党制を目指すべく取り入れた改革によって自民党自身にも変質をもたらし、異論を廃し、執行部の命令に逆らえないような絶対的体制が作り出されてしまった。
国民が思っているよりも根深いところで、自民党の自由や民主主義は硬直してしまっているのである。
だが国民はそれに気付かず、選挙を通じて繰り返しこの体制を支持しつづけてきた。そうしたいびつな政治過程が展開した果てに、モリカケ問題のようなものが現れたとみることができる。
次の政権が担わねばならないこと
こうした日本の政治の頂点にいるのが安倍総理である。
そしてこの安倍晋三氏こそ、政界のサラブレットであり、血筋の通った人物なのであった。
日本国民の一番好きそうな人物。頼っていれば安心だと思える人物。それが安倍総理だというわけである。
だから、そんな人が嘘をつくはずがないし、清廉潔白だとみな思っている。
いや事実、本人自身は清廉潔白なのだろう。少なくとも昨年のある国会答弁の時点までは。
だが、決定的権力を握るリーダーほど、気をつけなければならない能力に、どうも欠けていたのだろう。
それは、事実を誇大化したり、勝手に忖度をして、権力を権力者の意志とは別のものに利用しようとする悪者を見抜き、権力の暴走を未然に阻止する能力である。
権力は、善いものだけでなく、悪いものを引き寄せる。むしろ悪いものの方がより集まってくる。権力が強大化すればするほど、そうした悪い勢力を適切に見抜き、悪い力が政治や行政に入り込むのを止める力を強めなくてはならない。
おそらくそうした力に乏しいことが、こんな結果を生んだのだ。
それでもまだ幸い夫人や無二の親友など、暴走は最も近しい人の近辺にとどまっている。そして個人的に見れば、夫人にも加計氏にもそこまで根深い悪意はないと私は思う。
政治・政策の劣化や行政の暴走が生じていても、事態はまだ最悪までには至っていない。安部総理には、自分が犯した失敗を、まだ未然のところで防ぐチャンスが残されている。
だが、総理を支える自民党も、国民も、総理におもねるだけで、総理のために本当に必要なことをやってくれる気配はない。なすべき決定は総理自身がせねばならないが、総理には自分の間違いを認める度量はないようだ。
事態はこのまま悪化の一途をたどるだろう。
政治行政のバランスを取り戻すには
他方で私たちが、そして政治が、総理が、なすべきことははっきりしている。
それは、モリカケ問題がなぜ起きたのかを徹底的に掘り下げ、調査していくことである。すでにそれはメディアや多くの識者が言い続けていることであった。
だがその際、私たちは次のことに留意しなければならない。
大事なことは、調査をして新たな事実が出てくることではない。
すでに出てきた事実だけで十分に事態は深刻なのであり、その事実を――一切それを認めない政権とは別のところで、しかも法的問題としてではなく政治的責任の問題として――国民全体の公益性の側から正当に分析し、取り扱うことが大切なのである。それは当然、国政調査権を活用した国会主導の調査委員会という形になるはずだ。
そしておそらく森友事件よりも加計問題の方が根深く深刻であり、またこれらの事件を"政治的に"追及するためには、安倍昭恵夫人(さらには谷査恵子氏)と加計孝太郎氏の国会証人喚問が不可欠だから、それが実現した時点で安倍内閣は総辞職し、事件は別の段階に入っていくことになろう。
逆にいえば、安倍政権を後生大事に有り難がり、いつまでも守りつづける国民と自民党が、問題を長引かせている原因なのである。結局そこに行き着くことになる。
今のままでは国民にとって良いことにはならない。政治も行政もあきらかに暴走をはじめている。強行採決が常態化するなど、絶対にあってはならないことだ。
まずは起きている現実を自民党(および公明党)がはやく直視し、受け入れることが必要だ。選挙に勝つとか負けるとかそういうことではなく、政治を正常なものに戻す責務が与党にはある。これ以上この状態をつづけてはいけない。
そして国民も起きている事態を素直に受け入れ、事実に目をきちんと向けなくてはならない。一人ひとりがつくる世論こそが政治の清潔さを保つ絶対条件なのである。
このまま放っておいては、政治・行政の暴走は止まらなくなるかもしれない。一見安定しているように見えるかもしれないが、安倍政権が続く以上、このリスクがありつづけることを国民は認識しておかなくてはならない。
誤った決定をしていくことで訪れる未来
いま国会の国政調査権にもとづいた徹底した調査を行うことが必要だと述べた。
とはいえ筆者は、いまのままの体制で調査を行うことには、かえって事態をこじれさせるかもしれないという危惧も抱いている。
調査は、適正な調査体制に基づいて行われねばならない。その際、政治と行政の関係性が重要だと筆者は見る。
それを政治(国会)自身が自分で調査するのでは、ここでも財務省が財務省の調査をしたのと同様に、内部調査の限界が露呈することになるだろう。
外部委員を組み込んだ適正な調査体制の設計こそが――もしそうした調査委員会が実現するのなら――求められるのである。
というのも、今回のモリカケ問題をめぐる与野党の攻防をめぐって、筆者には非常に気になる点がもう一つ見えたからである。
本稿の前編は、財務省による森友問題の文書改ざんに関する調査報告書(「森友学園案件に係る決裁文書の改ざん等に関する調査報告書」)を読み解くことから論をはじめた。その分析の中で一つ言い残したことがある。
それは、政権や与党以上に、財務省職員たちが野党議員たちの追求を必要以上に怖れている姿であった。
例えば、報告書の11頁にはこんな記載がある。
「当時、国会議員のほか、一部政党において本省理財局等からヒアリングを行うための会議が繰り返し開催されており、さらに同政党の国会議員団は、森友学園に売り払われた国有地を平成29年2月21日(火)に視察することとなった」と。
どうも、こうした野党の動きに過剰反応したこともまた、文書改ざんに至る重要な原因となっていたようなのである。そうした記載が報告書の随所に現れている。
文書改ざんを生み出した"圧"は、与党からだけでなく野党からも感じていたように読み取れるのである。
わが国の行政と政治のバランスは、すでに相当おかしなものになっているようだ。
今回のモリカケ問題でも、野党ヒアリングの様子がテレビ中継されたが、あの時の国会議員と各省庁職員とのやりとりを見ていて違和感を覚えた国民は少なくないだろう。
ではどんな関係が適切なのか。
両事件の調査には、そこまで踏み込んだ検証が必要なのだと付け加えておきたい。
現在の政治・行政・国民のバランスがこのままである限り、今後何が起きるのか分からない。今回の事件を、私たちはしっかりと反省材料として活用しなくてはならない。
それは、言い方を変えれば、当分の間、私たちは「改革」というものをストップし、重大な案件を政治的に決定することをいったん放棄することでもある。
世界に取り残されても、まずはこの国の内部構造を立て直さなければならない。でなければ、私たちは何をやってもこの先、誤った決定をしていくことになるだろう。
今私たちはそうした国家としての機能不全の状態に陥っている――このことを自覚する必要があると警告することで、この稿を終えておく。