沖縄は日米戦争で本土防衛の橋頭保とされ、日本で唯一地上戦が繰り広げられました。沖縄県人12万2千人余が亡くなり、そのうち9万4千人が一般人でした。
52年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約によって日本は主権を回復しましたが、沖縄は切り離され米国に施政権が委ねられました。
沖縄県出身の詩人・山之口貘は、1951年夏、異郷で沖縄の行く末を案じ、
「琉球よ 沖縄よ こんどはどこへ行くというのだ」
と書き綴りました。
講和・安保によって形成されたのは「沖縄基地の固定化」と「本土・沖縄の分断」で、1879年の琉球併合(琉球処分)から73年目に行われた新たな処分でした。
沖縄の「構造的差別」の源流はここにありました。
同じ52年4月28日、旧日米安保条約と日米行政協定が発効しました。行政協定は米軍占領下の日米の力関係をそのまま文書化したもので、当然極端な不平等性を備えていました。
安保条約と行政協定は日本全土に及ぶものですが、その被害を最も受けたのはいうまでもなく沖縄でした。それ以後沖縄に米軍基地が集中するようになり、最終的に米軍専用施設の7割(面積ベース)が国土の0・6%しかない沖縄に集まりました。
沖縄が日本に返還されたのは20年後の1972年5月でしたが、基地の集中はそのままでした。
28日、沖縄タイムスは「きょう『4・28』 今も続く『構造的差別』」とする社説を、琉球新報は「4・28『屈辱の日』 沖縄の切り捨て許されぬ」とする社説を、それぞれ掲げました。
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(社説)きょう「4・28」 今も続く「構造的差別」
沖縄タイムス 2019年4月28日
詩人の山之口貘は、講和会議を目前に控えた1951年夏、異郷で沖縄の行く末を案じ、一行また一行と悲痛な思いを書きつづった。
「琉球よ 沖縄よ こんどはどこへ行くというのだ」
戦後日本の針路を決定づけたサンフランシスコ講和条約と旧安保条約は51年9月8日、サンフランシスコの別々の場所で締結され、翌52年4月28日、発効した。
講和条約によって日本は主権を回復したが、沖縄は切り離され、米国に施政権が委ねられた。
条約発効からきょうで67年になる。
56年11月、琉球列島民政長官によって行政主席に任命された保守の重鎮、当間重剛は施政方針演説で琉球政府の性格を「米国民政府の代行機関」と表現した。
米国民政府とは、沖縄統治のための米国政府の出先機関のことである。琉球政府は出先機関の、そのまた代行機関というわけだ。
旧安保条約の締結に伴い、52年4月28日、条約と同じ日に、米軍の特権などを盛り込んだ日米行政協定が発効した。
協定は、極端な不平等性を備えていた。作家の山田風太郎は52年4月8日の日記にこう書き記している。
「独立の曉は - などというが、日本は独立などできはしないではないか。講和条約は発効しても、行政協定が新たに結ばれたではないか。自由未だ遼遠なり」
条約が発効して間もないころ、日本本土には600余りの米軍基地があったという。 ■ ■
基地問題を巡る沖縄と本土の関係が逆転し、米軍基地が沖縄に集中するようになるのは講和発効後、50年代に入ってからである。
そのころ、全国各地で米軍がらみの事件・事故が多発し、反対運動が高まった。米軍統治下の沖縄でも基地建設のための土地接収が相次いだ。
日本本土の基地問題は、憲法が適用される日本の施政下での問題であり、強権的に対応すれば反米感情を高め、安保体制そのものを脅かすおそれがあった。
憲法の適用を受けない米軍統治下の沖縄では軍事上の必要性がすべてに優先された。米国民政府と米軍は「布令布告」と「銃剣とブルドーザー」によって住民の抵抗を押し切って基地建設を進めた。
講和条約第3条が、基地の沖縄集中を可能にしたのである。日本政府は「日本の安全にかかわる問題」としてそれを追認してきた。
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「構造的差別」の源流は、ここにあると言っていい。「4・28」は、決して過ぎ去った過去の話ではない。
安倍政権は講和条約が発効した4月28日を「主権回復の日」と定め、2013年、沖縄側の強い反対を押し切って、政府主催の記念式典を開いた。
ここに安倍政権の沖縄に対する向き合い方が象徴的に示されていると言っていい。
講和・安保によって形成されたのは「沖縄基地の固定化」と「本土・沖縄の分断」である。
それが今も沖縄の人びとの上に重くのしかかっている。
(社説)4・28「屈辱の日」 沖縄の切り捨て許されぬ
琉球新報 2019年4月28日
今から67年前の1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効した。日本が独立する一方で、沖縄、奄美、小笠原は切り離された。この「屈辱の日」を決して忘れてはならない。
沖縄は去る大戦で本土防衛の時間稼ぎに利用され、日本で唯一、おびただしい数の住民を巻き込んだ地上戦が繰り広げられた。戦いは凄惨(せいさん)を極め、日米合わせて20万人余が犠牲になった。
このうち9万4千人が一般人で、現地召集などを含めると12万2千人余の県出身者が亡くなった。民間人の死者が際だって多いことが沖縄戦の特徴である。
激戦のさなか、日本軍はしばしば住民を避難壕から追い出したり、食糧を奪ったりした。スパイの嫌疑をかけられて殺された人もいる。
戦後は米統治下に置かれ、大切な土地が強制的に接収された。米国は、講和条約の下で、軍事基地を自由に使用することができた。
72年に日本に復帰したものの、多くの県民の願いを踏みにじる形で米軍基地は存在し続けた。沖縄戦で「捨て石」にされたうえ、日本から切り離された沖縄は、今に至るまで本土の安寧、本土の利益を守るために利用されてきたと言っていい。
そのことを象徴するのが、名護市辺野古の海を埋め立てて進められている新基地の建設だ。2月24日の県民投票で「反対」票が有効投票の72・15%に達したが、政府は民意を黙殺した。
反対の意思は、昨年9月の県知事選、今月の衆院3区補選を含め三たび明確に示されている。それらを平然と無視し続けるメンタリティーの根底にあるのは、「切り捨て」にほかならない。問答無用でとにかく「国の方針に従え」という姿勢だ。
1879年の琉球併合(琉球処分)から140年になる。沖縄はいまだに従属の対象としか見なされていない。
安倍政権は、普天間飛行場の危険性除去と返還のためには「辺野古移設が唯一の解決策」と判で押したように繰り返す。できない理由をあげつらう前に、どうすれば県内移設を伴わない普天間飛行場の返還が実現できるかを追求すべきである。
国土の0・6%しかない沖縄に、全国の米軍専用施設(面積)の7割が集中している現状は誰の目から見ても異常だ。沖縄に対する構造的差別としか言いようがない。
基地から派生する凶悪事件、米軍機の墜落といった重大事故が繰り返され、軍用機がまき散らす騒音は我慢の限度を超える。有事の際に攻撃目標になるのが基地だ。この上、新たな米軍基地を造るなど到底、受け入れ難い。そう考えるのは当然ではないか。
これまで繰り返し指摘してきた通り、県民が切望するのは平和な沖縄だ。政府はいいかげん、「切り捨て」の発想から脱却してほしい。