東京新聞の連載記事「天皇と憲法」(1)、(2)を紹介します。
(1)未知の象徴をめざして・・・今上天皇陛下は「象徴天皇」ということを国民の誰よりも深く考えられ、しかも全身全霊でそれを実行された方でした。それに比べると、安倍首相が天皇の「生前退位」に関するヒアリングメンバーに押し込んだ人たちの発言はなんと浅薄だったことでしょうか。
(2)沖縄の苦難に向き合う・・・陛下の沖縄訪問は皇太子時代を含めて11回に上るということです。皇太子時代、美智子妃と初めて一緒に行かれたときには危害を加えられそうになりました。(2)が掲載された4月28日は、たまたま67年前の1952年に日本が独立したとき沖縄だけが日本から分離され施政権をアメリカに委ねた日でした。沖縄はこの「4・28」を「屈辱の日」としています。
陛下が沖縄のことを思われて11回も訪問されたことは、「象徴天皇」はどうあるべきかを深く考えられて実践された一つの例です。
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天皇と憲法(1)未知の象徴をめざして
東京新聞 2019年4月27日
今月末の天皇陛下の退位は近代天皇制では初となる。新天皇が即位し、「令和」が幕を開ける。憲法の観点から、日本の天皇制を考えてみたい。
象徴たる天皇というイメージは、日本国憲法の制定当時は誰もがつかみにくかった。明治憲法下ではむろん、万世一系の皇統を継ぐ天皇が現人神として君臨する-という根本の建前があった。
実は象徴の意味である「シンボル」の用語はまず、今では公になっている米国の機密電報に出てくる。一九四六年一月。連合国軍最高司令官マッカーサーから、ワシントンのアイゼンハワー参謀総長宛ての電文である。
◆「あこがれの中心」と
<天皇はすべての日本人を統合するシンボルである。彼を滅ぼすことは、国を崩壊させることになる。日本人は、連合国の天皇裁判を自国の歴史に対する背信とみなし、憎悪と怒りを予見しうる限り長期にわたって永続させるであろう(以下略)>
その翌月には連合国軍総司令部(GHQ)側から示された新憲法案の中に天皇を「シンボル(象徴)」と記してあった。英国のウェストミンスター法などにも、王位を「象徴」と記していた。
しかし、新憲法制定の議会では、象徴とは何かが問われた。例えば四六年六月の帝国議会で憲法担当大臣の金森徳次郎は「あこがれの中心として、天皇を基本としつつ国民が統合している」と説明している。それにしても「あこがれの中心」とは、いかにも抽象的である。
象徴とは何か-。この漠たる表現に最も悩まれたのは天皇陛下ご自身だったかもしれない。陛下がこのテーマについて考えを巡らしていたのは明らかで、退位の意思を事実上、示された二〇一六年八月八日のビデオメッセージに、それが色濃くにじんでいる。
◆国民の視界に入るよう
「日本国憲法下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を日々模索しつつ過ごしてきました」「国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます」。そんなお言葉である。
憲法には国事行為のみが書かれていて、「象徴としての行為」に関する定めがない。国事行為とは首相や最高裁長官の任命などだ。法律や条約などの公布も、国会召集も、大臣らの任免も…。
憲法は「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とも定めている。
そして、国事行為とは別に、天皇の私的な領域があることは自明の理である。私事である。しかし、天皇にいわゆる信教の自由などはあるのだろうか。もし、ないのなら、私人として全く自由な存在でもありえない。
だから、天皇にはまず象徴という地位があると考えるしかない。「象徴としての行為」とは、それを具現化するためのいとなみである。だから憲法に規定はないが、国事行為とも私事とも異なる重要な公的行為が「象徴としての行為」となる。具体的には国民に寄り添い、苦楽をともにする -。例えば各地の被災地を見舞い、アジアの各国を慰霊のために旅をする -。そのような行為の姿である。
ある喩(たと)えを用いよう。国内のどこにも天皇の姿が現れなくなったら…。国民の視界から天皇は消えてしまい、国民は象徴として考えにくくなる。だから、「象徴としての行為」こそ重要なのである。陛下が実践された旅する天皇像こそ象徴性を支えていると考えるのが自然ではないか。
在位中に起こった阪神大震災や東日本大震災などの災害をお見舞いし、被災者を励ます。膝を折り、被災者に寄り添う姿は、陛下の時代から生まれた新しい象徴天皇の姿だったといえる。
ただし、旅する天皇像は、国民に象徴としての姿を現す一方、憲法にその定めがない故に、政治利用の余地もある点は、留意が必要である。天皇が「動く」ことだけで政治的な意味を持つからだ。沖縄やアジア諸国などへ「動く」ことにも当然、意味が発生する。政権が意図しての旅ならば、まぎれもなく政治的利用にあたろう。
五月一日に即位する新天皇は、グローバル時代にふさわしい旅をするかもしれない。新皇后は元外交官でもあったから…。
◆民主主義にふさわしく
皇室外交の花を開くかもしれない。だが、当然ではあるが、外交は政治なのであり、あくまで儀礼の枠を出ない国際的な社交にとどまらねばならない。
憲法が天皇に政治的行為を禁止した理由は、戦前の歴史を蘇(よみがえ)らせないためである。陛下は憲法に忠実に民主主義にふさわしい天皇像を実践されたと考える。国民の共感が生まれるゆえんである。
天皇と憲法(2)沖縄の苦難に向き合う
東京新聞 2019年4月28日
凄惨(せいさん)な地上戦や苛烈な米軍支配など苦難の歴史を強いられてきた沖縄。天皇陛下が心を寄せられたのは、国民統合の象徴としての天皇像の模索でもある。
「だんじよかれよしの歌声の響(ダンジュカリユシヌウタグイヌフィビチ) 見送る笑顔目にど残る(ミウクルワレガウミニドゥヌクル)」
「だんじよかれよしの歌や湧上がたん(ダンジュカリユシヌウタヤワチャガタン) ゆうな咲きゆる島肝に残て(ユウナサチュルシマチムニヌクティ)」
二月二十四日に行われた天皇陛下在位三十年記念式典。両陛下は沖縄県出身の三浦大知さんが歌う「歌声の響」に耳を傾けた。陛下が皇太子時代の一九七五年、初めての沖縄訪問後に詠んだ沖縄地方の言葉による琉歌に、皇后さまが曲をつけたものだ。
◆地上戦で県民が犠牲に
「だんじゅかりゆし」とは船出を祝う沖縄の歌。両陛下が名護市のハンセン病国立療養所「沖縄愛楽園」を訪れた際、見送りの人々から歌声がわき上がった。
その前日には激戦地だった沖縄本島南部の戦跡、糸満市のひめゆりの塔を訪れた両陛下に、火炎瓶が投げ付けられる事件が起きた。
琉歌には両陛下の旅の安全を願う人々の歌声や笑顔を心に留める陛下のお気持ちが詠(うた)われている。
陛下の沖縄訪問は、この皇太子時代を含めて十一回に上り、糸満市摩文仁の国立沖縄戦没者墓苑など南部の戦跡を必ず訪れている。
父である昭和天皇は沖縄訪問を切望し、八七年の沖縄国体に出席の予定だったが、手術のため見送られ、天皇としては訪問できなかった。その名代が、皇太子時代の今の陛下である。
天皇ご一家は「日本ではどうしても記憶しなければならないことが四つある」として、広島、長崎に原爆が投下された八月六日と九日、終戦の日の八月十五日に加えて、沖縄で組織的戦闘が終わった六月二十三日にも毎年、黙とうをささげてきた、という。
◆天皇制支配と別の歴史
式典での「記念演奏」に琉歌が選ばれたのも、天皇陛下の沖縄への思いを考えれば、ごく自然の流れだったのかもしれない。
では、なぜ陛下が沖縄に深い思いを寄せてこられたのか。
沖縄戦では当時六十万県民の四分の一もの人々が犠牲になった。天皇の名の下に始まった戦争の犠牲者慰霊こそ天皇の務めとされているのだろう。
それだけでなく、沖縄が近世まで天皇制支配の枠外にあり、戦後も一時期、本土と切り離された歴史と無関係ではあるまい。
沖縄にはかつて「琉球国」という日本とは別の国家があり、江戸時代の薩摩藩による侵攻を経て、明治時代の琉球処分で日本に組み込まれた。明治期に沖縄は徐々に日本に「統合」されたが、敗戦で再び本土から切り離された。
昭和天皇は米軍による沖縄の長期占領を望んだ、とされる。この「沖縄メッセージ」を巡っては沖縄を切り捨てたという議論や、潜在的主権を確保する意図だったなど、さまざまな議論はあるが、五二年のサンフランシスコ講和条約発効後も、沖縄では七二年まで米軍による統治が続いた。
国民主権、戦争放棄、基本的人権の尊重を三大理念とする日本国憲法が適用される本土復帰まで、沖縄は人権無視の米軍統治に苦しんだ。陛下の思いはこうした苦難にも向けられているのだろう。
沖縄には今も在日米軍専用施設の70%が集中し、県民は重い基地負担に苦しんでいる。
日本国憲法は天皇を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と定める。
天皇陛下は二〇一六年、退位の意向をにじませたおことばで「天皇が国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を内に育てる必要を感じてきました」「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、天皇の象徴的行為として大切なものと感じてきました」と述べている。
日本と別の独立国だった歴史を持ち、戦後の一時期は異国支配の苦難を強いられ、今も米軍基地の過重な負担に苦しむ沖縄。だからこそ、繰り返し訪問し、県民の苦難と向き合うことで「国民統合の象徴」としての務めを果たそうとされているようにも映る。
◆令和の時代に引き継ぐ
新天皇に即位する皇太子さまは皇太子になる前の八七年に初めて沖縄を訪れ、南部戦跡も訪問された。皇太子となった後も沖縄を訪れるとともに、沖縄の小中学生による「豆記者」と毎年会い、記者会見で「沖縄の文化とともに、沖縄での地上戦の激しさについても伺った」と紹介している。
戦争犠牲者を慰霊する役目と、多くの苦難を余儀なくされた県民に寄り添う国民統合の象徴としての務め。それらを誠実に果たそうとするお気持ちは新しい天皇に受け継がれるべきだろう。