2018年9月12日水曜日

12- 徹底比較 安倍晋三と石破茂 (12) (13)

 日刊ゲンダイの連載記事:「徹底比較 安倍晋三と石破茂 (12) (13)」を紹介します。
 
 ここでは両者の「保守思想」について語られています。一読して感じられることは、安倍氏の「底の浅さ」です。それにしても、彼に保守派論客故・西部邁氏との共著があったとは、ただただ驚きです。ゴーストライターが居たにしても・・です。
 
 対談者の鈴木哲夫氏、野上忠興氏のプロフィールについては、連載1回目
      ⇒ (8月26日)徹底比較 安倍晋三と石破茂 (1)、(2)
を参照ください。
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 徹底比較 安倍晋三と石破茂 (12) 
思想信条 <1> 安倍の「保守」と石破の「保守」に大きな違い
日刊ゲンダイ 2018年9月11日
鈴木 石破は「私は保守だけど、タカ派ではない」と言います。これは、巷間メディアで伝えられる印象とは違う。一般には「石破さんはどちらかというとタカ派でしょう。防衛大臣もやっていたし、憲法改正で自衛隊を戦力と位置付けると言っているし」などと思うけれど、石破は論理的に整合性をつけようとすると、ああいう言い方になってしまう。象徴的なのは沖縄の問題。石破の考える日米同盟は安倍とは決定的に違う。石破は、米軍は沖縄から出て行くべきだと考えています。しかし、片務的な日米同盟を直すことによって、逆に自衛隊が日本を守らないといけなくなる。石破は戦争についても、準備はするけれども行使しないために、政治が何をすべきかが大事だと思っています。かつて梶山静六も同じようなことを言っていました。周辺事態法を作るべきだとしきりに主張していて、タカ派じゃないかといわれましたが、法律を作って、それを行使しないために何をすべきかをセットでやるのが政治なんだと
 
野上 それが保守の考え方なんだということなのでしょうね。
 
鈴木 石破は「保守とは何か」ということを話す時、「塀」を例に出す。あるところに塀があって、邪魔だから住民は壊したいと言う。しかし、ちょっと待てと。塀ができた時には必ず何か理由があったはず。だからその時代に遡って、なぜ塀ができたのか調べて議論しようと。そうしたら昔、大洪水があって、それを防ぐための塀だったことが分かる。「今の時代は整備されて洪水はない。だから塀を壊していい」「いや、まだ洪水の危険性はある。だから残しておいた方がいいんじゃないか」。こうして結論を得る。これが保守の手続きだと、石破は言う。つまり、保守というのは、地域にある伝統や文化やしきたりを、改革すべきものはしっかり改革するけれど、議論してゆっくり改革していく。場合によっては壊さない場合もある。これが保守だと。それに比べて、安倍はお構いなしにどんどん壊していくから、どちらかというと、革命、破壊であり、保守ではない、と石破は言います。
 
野上 安倍は、保守派の論客として知られた故・西部邁の著作を好んで読んでいました。共著の本でもこう書いています。
 <私は西部邁さんがいっている「保守」の定義というものに一番共鳴するところがあって、保守というのは現在・未来と同時に、過去に対しても責任をもつような生き方ではないか、という風に考えています>
  ただ、安倍に深い思想信条があったかというと、そうともいえません。というのも安倍は、こうも書いていますから。
 <私が保守主義に傾いていったというのは、スタートは「保守主義」そのものに魅かれたというよりも、むしろ「進歩派」「革新」と呼ばれた人達のうさん臭さに反発したということでしかなかったわけです>
  つまり、革新・リベラルを「敵」と見なした結果、いえば理性より感情からの保守への傾斜となりますか。大学時代の教授も「安倍君は別に保守思想とか保守主義に関する基礎的な勉強をしてはいない」と述懐していましたが、底が浅い保守思想と映るのも道理となります。 (つづく・敬称略)
 
 
 徹底比較 安倍晋三と石破茂 (13) 
思想信条 <2> 安倍にとって大衆は敵…石破は自ら大衆の中へ
日刊ゲンダイ 2018年9月12日
野上 学生時代に基礎的な勉強をしていないというのですから、基本的に安倍には確固たる思想信条はないとみられるわけです。「保守思想」については評論家の故・西部邁の受け売りだという話をしましたが、世論の動向に一喜一憂するのも、本の影響があったようです。スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」で、<大衆は愚鈍ではないが無責任で、いつ心変わりするかわからない。それこそが大衆の特権であり、社会はそうした大衆の意識によって動く>がエキスです。祖父・岸信介が成し遂げた日米安保改定が世間から散々な評価だったことを苦々しく感じていた安倍は、この本から世論の影響力の大きさと怖さを学んだ。これを肝に銘じてやっているとか言っています。
 
鈴木 石破の大衆論は、田中角栄の教えを受け継いでいます。政治家というものは、有権者や大衆の中に自ら入っていって、大衆の声を聴く。10人や20人しかいないところでも演説し、握手し、話を聴く。そうしてこそ、大衆が何を考え、何を求め、何に困っているのかが分かる。できる限り地域に入り、大衆の声を聴くべし、という角栄の教えを石破は実践している。
 
野上 政治家の原点は、そこでしょうしね。実は岸信介にしても回顧録の中で、「政治家は大衆の中に入っていくべきだ」と言っています。安倍の父・晋太郎もそうです。共産党の政策だって、良ければ取り入れていいという考え方。これも大衆の中に入っていくということに通じますね。
 
鈴木 政治家の語る大衆論って、そういうことですよね。本から学ぶ話じゃないように思いますが。
 
野上 学友たちが「安保や憲法改正とかについて時に激して、まくし立てることはあったが、感情的であっても基礎的な知識の上に立ったなるほどと思える深みは、感じなかった」と振り返っているように、安倍が本も思索しながら読み込んでいたのかどうか。つまり、安倍にとって、大衆、国民というのは必ずしも身近な存在ではなく、あくまで政治と対置される存在なのでしょう。敵と味方で言えば、最初からいつ心変わりするかわからない「大衆」を敵とみなしている。だから、「怖い」という概念が常にあり、「大衆」を動かすパフォーマンスや世論調査の数字に歴代総理大臣に比べ、すごく気を使い、気になるわけです。そうしたポピュリズムは、時として、政治にとって国民が“邪魔者”に見える危険性が潜んでいるように思います。
 
鈴木 だから街頭演説で「安倍帰れ」と言われたら、敵と思ってしまうわけですね。
 
野上 「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と発言したことも、ありました。石破が安倍のことを「保守ではない」と言っていたそうですが、重層的な歴史を重んじようとする保守思想とは、「排除の論理」ではなく、もっと深く広く文化や思想の違いを包含できるものでなければならないように思いますがね。晋太郎が「最高指導者には右も左もない。物事を決め、方向性を決める最高指導者に求められるのはバランスだ」と言っていたのとは対照的です。 (つづく・敬称略)