26日の官房長官会見で、東京新聞・望月記者が「会見は一体何のための場と思っているか」と質問したところ、菅官房長官が「あなたに答える必要はない」と回答を拒んだことが波紋を呼んでいます。
菅氏は翌日の会見で「これまで累次にわたり、『会見は記者の質問に対し、政府の見解や立場を答える場で、意見や要請に答える場ではない』と述べてきた。あえて繰り返す必要はないということだ」と弁明しましたが、それが「あなたに答える必要はない」の理由になるとはとても言えません。
政府の見解や立場を糾す質問がどうして「意見や要請の表明」になるのでしょうか。質問をするに当たり、先ず前提となる状況の説明から入るのは当然のことで、それを「意見の表明」であるとして否定するのであればそもそも質問のしようがありません。菅氏はその誤りを自覚していて、追及を受ければ耐えられなくなると知っているから答えられなかったのでしょう。
菅氏は常に同記者の発言を「意見の表明」であるかのような言い方をしますが、いつの場合でも望月記者の発言は完璧な質問形式になっているのに対して、官房長官の回答は「回答の体をなしていない」というのが実態です。満足に答えられないから、相手に対して異常なレッテル貼りをするというのは卑劣です。
望月記者が質問すると、主催者でもない官邸の一員(報道室長)が約10秒ごとに「簡潔に」を連発するという質問妨害が、いまだに行われていることを含めて、同記者に対する官邸側の態度は異常で、権力を笠に着た「いじめ」に他なりません。
これ自体が現政権の低劣さを物語るものですが、それがこうした場で公然と行われていても、出席している記者たちから何のクレームも出ないというのは極めて異常です。
琉球新報が「異常な官房長官会見 政府の姿勢放置できない」とする社説を出しました。
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<社説>異常な官房長官会見 政府の姿勢放置できない
琉球新報 2019年2月28日
菅義偉官房長官が26日の記者会見で東京新聞の望月衣塑子(いそこ)記者から「この会見は何のための場だと思っているのか」と問われ「あなたに答える必要はありません」と述べた。質問自体を封じるこのような態度は、国民の知る権利を真っ向から否定するものだ。断じて認めるわけにはいかない。
菅長官は、翌27日の会見で別の記者から発言の趣旨を問われ「国会や会見で『政府の見解、立場を答える場だ。意見や要請に答える場ではない』と言ってきた。(その答えを)繰り返す必要はないということだ」と述べた。これはすり替えである。
官房長官会見での望月記者への質問制限について、東京新聞は20日付で経緯と見解を示す特集を掲載した。その中で、2017年秋以来9回も官邸から文書で申し入れを受けたことを明らかにした。臼田信行編集局長は「権力が認めた『事実』。それに基づく質問でなければ受け付けないというのなら、すでに取材規制です」と指摘した。望月記者の質問はこれを踏まえたものだ。
26日午前の会見で望月記者は申し入れ文書を「今後は他のメディアにも送るつもりか」と質問した。菅長官は「事実と違う発言をした社のみだ」と答えた。午後の会見で望月記者は「わが社以外にも抗議文を出したことがあるのか。これからも抗議文を出し続けるのか」と畳み掛けた。
これに菅長官は「この場所は記者の質問を受ける場であり、意見を申し入れる場所ではない」とはぐらかした。そこで望月記者は「会見は政府のためでもメディアのためでもなく、国民の知る権利に応えるためにあると思うが、長官はこの会見は何のための場だと思っているのか」とただしたのである。
このやりとりから分かるのは次のことだ。官邸側は、質問に意見や要請が含まれると見なせば答えない。事実誤認と見なせば答えない。それが続けば文書を送って圧力をかけるということである。
記者が事実認識を示した上で質問するのは普通のことだ。事実誤認だと思うなら、答える中で説明すればいい。それが説明責任を果たすということだ。事実認識を示すことを「意見」や「要請」だというのはこじつけであり、答えを拒む理由になり得ない。
昨年12月、河野太郎外相が記者会見で質問に答えず「次の質問どうぞ」と繰り返した問題もあった。記者会見を政府の広報の場とのみ捉える傲慢(ごうまん)な政権の姿勢は一貫している。一記者、一新聞社の問題ではなくメディア全体の問題であり、国民にとって深刻な事態だ。
国民の知る権利をないがしろにする政府の姿勢をこれ以上放置できない。誰のために取材・報道をするのかという原点を再確認し、異常な記者会見の現状を是正しなければならない。