2019年3月11日月曜日

東京大空襲74年 孤児たちの闘い 上野では「時忘れじの集い」

 74年前の1945年3月10日、米軍による東京大空襲では10万人が亡くなりました。焼夷弾による炎と灼熱で生命を絶たれた多数の死者の写真や絵画は地獄絵そのもので、あまりにもむごくて正視するに堪えません。そうした死こそ最大の不幸でしたが、焼け出された人たちのその後の生活もまた悲惨でした。
 空襲で家と親を失った戦争孤児たちが、その後生き延びるために味わった辛酸も筆舌に尽くしがたいものでした。74年が経ってはじめて口にできることもあります。
 東京新聞が「孤児たちの闘い」を取り上げました。
 
 それとは別に9日、JR上野駅周辺で空襲犠牲者に祈りをささげる「時忘れじの集い」が開かれ、遺族ら約1500人が参列しました。
 集いを主催してきたのは海老名香葉子さん(85)で、今回は15年目の節目の年でした。その記事を併せて紹介します。
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<孤児たちの闘い 東京大空襲74年>(上)
飢え 物乞い 地下道生活 ずっと語れなかった 鈴木賀子(よりこ)さん(81  https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201903/CK2019031002000135.html 
 
東京新聞 2019年3月10日
    【写真説明】戦争孤児だった7歳のとき身を寄せていた上野駅の地下道を訪れる鈴木賀子さん。「思い出すとつらくなるので、上野はあまり通らないようにしています」=東京都台東区で(木口慎子撮影)
 
 半月か一カ月か。どれくらいそこにいたのか、はっきりは覚えていない。終戦から間もない一九四五年の秋、戦争孤児らであふれる上野駅の地下道に埼玉県川口市の鈴木賀子(よりこ)さん(81)はいた。東京大空襲で孤児となり、焼け焦げた布団で寝て、食べ物を盗み、飢えをしのいだ。生きるために。
 
 「朝起きると毎日誰かしら亡くなっていました。夕べ話したおじちゃんも。大人が何人かで死体を抱えて入り口の近くに置いていました」。鈴木さんは、記者と訪れた上野駅の地下道から、目を背けるように語った。「今も上野駅には来たくない。つらい過去を思い出してしまうから」。ここでの体験を、ずっと語れなかった
 
 七歳だった。四五年三月十日、四つの弟と十四歳の二番目の姉とともに、東京都城東区(現江東区)の自宅近くの防空壕(ごう)に避難した。「大事な物があるから取りに行ってくるね」。そう言って、母と一番上の姉は防空壕を出ていった。
 間もなくB29爆撃機が次々と爆弾を投下する。「学校へ逃げろ!」。防空壕を飛び出し、火の海を走りに走った。服が腕から燃えていく。弟をおんぶして逃げた姉の顔は火膨れしていた。たどり着いた学校で朝を迎え、目にした町は至る所に死体が転がっていた。
 げたは履き捨てていた。熱を帯びた道は素足で歩けない。黒焦げの死体の上を歩き、たどり着いた自宅は焼け落ちていた。母も、上の姉も見つからなかった。
 
 約十五キロ離れた大井町の親戚宅へ行ったが、邪魔者扱いされた。高円寺で国鉄職員として働いていた姉と別れ、尾久にいる別の親戚宅に預けられた。
 ある日、その家の人ではない、女性が訪れてきた。遠い親戚だと言われたが、きれいな人だったことだけは覚えている。ニシンの干物をくれた。「一緒にいれば食べ物がもらえる」。空腹に耐えられず、弟とついて行くことを決めた。
 女性と電車に乗った。だが、いつまでたっても降りない。「どこに行くんですか」。たまらずに聞くと、「あんたたち、もらわれて、これから小樽へ行くのよ」と告げられた。
 
 北海道・小樽の家では毎日のようにいじめを受けた。二階の窓から投げ出されたこともある。雪があってねんざで済んだものの、右足には後遺症が残った。「かわいくなかったんでしょうね。でもね、空腹がどれだけつらいか。痛みはそのときだけですから」
 半年がたったある日、弟が姿を消した。小樽駅で弟を見つけると、「ご飯、食べられなくてもいいから、東京帰ろう」。姉の住む高円寺に向かう決意をした。
 何度も女性に帰郷を頼み込み、青函連絡船まで一緒に行って切符を渡されたが、「弁当を買いに行く」と言い残したまま戻ってこなかった。「おまえら、捨てられたんだよ」。船で雑魚寝していた男の人から突き放すように言われた。
 
 連絡船を下り、大人の後を追って駅の改札を擦り抜け、無賃乗車を繰り返した。おなかをすかせた弟はよく泣いた。「めぐんでください。食べ物を」。降りるたびに物乞いを続けた。「いつも、犬のように追い払われました。空襲後、一番つらい思い出です」
 小樽を出て何日後だったか。たどり着いた高円寺で再会した姉は号泣した。だが、転がり込んだ姉の寮で盗難が相次ぐと、弟と二人に疑いの目が向けられた。「もう行く所がなくなっちゃったね」と姉が言う。高円寺を後にし、向かった先が上野駅の地下道だった。
 一夜で約十万人が犠牲になった一九四五年三月の東京大空襲では、多くの子どもたちが家族を失った。戦争孤児となった人や保護施設の関係者に焦点を当て、大空襲の裏面史を描く。
東京新聞ホームページ「孤児たちの闘い 東京大空襲74年」コーナーで、連載で取材した人々が登場するドキュメンタリー動画を公開しています。
 
 
東京大空襲74年…悲しみずっと 時忘れじの集い 10万人の犠牲者に祈り
東京新聞 2019年3月10日
 10万人以上が亡くなった東京大空襲から74年になるのを前に、犠牲者に祈りをささげる「時忘れじの集い」が9日、台東区のJR上野駅周辺で開かれ、遺族ら約1500人が参列した。集いを主催してきたエッセイストの海老名香葉子さん(85)は「戦争ほど悲しいものはない。この悲しみをずっと伝え続けていかなければいけない」と誓った。 (加藤健太)
 
 十五年目となる節目の集いは、春の陽気に包まれた。駅近くに立つ慰霊碑「哀(かな)しみの東京大空襲」前で供養式があり、海老名さんをはじめ、息子で落語家の林家正蔵さん、林家三平さんらが順番に焼香した。
 一九四五年三月十日の大空襲で両親ら六人を失った海老名さん。あいさつで当時を思い起こし、「七十年たっても亡くなった人たちの面影は消えない。父や母を思うと孤独になる」と声を詰まらせた。
 その後、上野公園内にある母子像「時忘れじの塔」前に会場を移して、記念式典が開かれた。地元の台東初音幼稚園や根岸小学校、忍岡中学校などの子どもたちが元気よく歌い、詩を朗読した。海老名さんの疎開先の一つだった、石川県穴水町などから届いた千羽鶴が飾られた。
 
 三平さんは閉会のあいさつで「子どもの元気な姿がいつまでも続くように、今後も集いを続けていきたい」と語った。全員で童謡「ふるさと」を歌って締めくくった。
 終了後、海老名さんは報道陣の取材に応じ、七日に疲労から体調を崩し、高熱を出していたことを明かした。この日は、立ち上がる際に三平さんらが体を支える場面が目立った。