東京新聞のシリーズ「孤児たちの闘い 東京大空襲74年」の第二弾では、最初の記事に登場した鈴木賀子さんを含む5人のインタビュー動画が載りました。貴重な記録です。
URLをクリックし、動画の画面になったらスタートボタンをクリックすると動画が始まります(各4~5分程度)。
山内さんが78歳、ほかの4人は80歳代です。
東京新聞は、11日に行われた江東区での「東京大空襲を語り継ぐつどい」と台東区・隅田公園での犠牲者の追悼集会について報じました。併せて紹介します。
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孤児たちの闘い 東京大空襲74年
東京新聞 2019年3月11日
頼るあてもなく地下道へ 鈴木賀子さんインタビュー
東京大空襲で家族を奪われ、頼るあてもなくなり、弟とたどり着いたのが、戦争孤児らであふれた上野駅の地下道だった。
生きるのが精いっぱい 金子トミさんインタビュー
空襲で両親と妹を失い、身を寄せた上野駅地下道では、やせ細って死んでいった孤児を毎日のように見た。自分たちが生きるのが精いっぱいだった。
愛児の家で孤児と向き合う 石綿裕さんインタビュー
終戦直後、戦争孤児たちに手をさしのべた施設「愛児の家」創設者の三女で、自らも母と共に上野駅で孤児を保護した。
5歳で「愛児の家」へ 山内昭夫さんインタビュー
5歳のとき、中野区の施設「愛児の家」に保護された。結核を患う母は病院に送られ、間もなく亡くなった。
セミを捕まえ飢えしのぐ 戸田成正さんインタビュー
1945年4月の城北大空襲で母を失い、戦後は板橋の養育院に入れられた。飢えをしのぐため、セミを捕まえて焼いて口にした。
大空襲 つなぐ記憶 各地で犠牲者追悼集会など
東京新聞 2019年3月11日
下町を中心に約十万人の命を奪った東京大空襲から七十四年の十日、犠牲者を追悼する集会などが各地で開かれ、記憶を風化させず、戦争の過ちを繰り返さない決意を新たにした。
◆江東でつどい 350人参加
江東区では、「東京大空襲を語り継ぐつどい」が区文化センターで開かれ、体験者の話や空襲について学んだ小学生の報告があった。同つどい実行委員会が主催し、約三百五十人が参加した。
体験を話したのは、現在の墨田区江東橋付近で十二歳で空襲に遭った正木安喜子さん(86)。焼夷(しょうい)弾に追われ逃げ込んだ校舎が猛火に包まれる中、家族とはぐれ「お母ちゃん」と泣きながら生き延びた当時を振り返り、明け方に再会できた母に強く抱き締められた思い出や、やけどの痛みなどを語った。正木さんは「三月十日が来るたびに、一般市民が焼け殺された悲惨な空襲を思う。いつまでも語り継いでほしい」と述べた。
江東区立大島南央小六年の光本心透(しと)さんと栗山茜さん=ともに(12)=は、同区にある東京大空襲・戦災資料センターを社会科見学で訪れた経験から「私たちができることは見たり聞いたりしたことを伝えていくこと」「かけがえのない命を守れる世界になるように」と未来への思いを力強く発表した。
小説「小さいおうち」などの小説で大空襲を描く作家の中島京子さんが講演し「東京に生きて暮らしている人間として、受け取らなければならない記憶だ」と、今を生きる人たちが地域の歴史を知ろうとする想像力の重要さを訴えた。 (長竹祐子)
◆「火の柱 横に焼夷弾」浅草で体験者2人、状況語る
台東区では、かつて犠牲者の遺体が仮埋葬された隅田公園(浅草七)で追悼する集会が開かれ、体験者二人が炎の海を逃げた当日の状況を語った。
広瀬房代さん(84)=港区=は当時十歳で、現在の台東区松が谷に住んでいた。「柱のように火が燃え上がる中、防火用水を浴び、浅草通りに逃げた。焼夷(しょうい)弾が横に落ちたが、不発だったので、この世にいる」と証言。「五輪などの競技場で日の丸が揚がると、今でも焼けただれた人間の臭いがよみがえる。平和を守るために話を続けていきたい」と述べた。
当時も、現在も柳橋(台東区)在住の河野悦子さん(87)は「両国橋の上を火がはってきた。向こう側で、三階建ての出羽海部屋が仕掛け花火のようにメラメラ燃えていた」と、十三歳のときの大空襲を回想。「二度と戦争は御免こうむりたい。あんな悲惨な思いをしないよう、頑張って、いい日本を築きあげなくては」と車いすの上から訴えた。
集会は、公園に区が建立した「戦災により亡くなられた方々の碑」の前で、有志による実行委員会が毎年催している。三十二回目の今年は、百二十人が参加し、黙とうをささげ、碑に献花した。 (井上幸一)