2020年8月2日日曜日

長岡空襲75年 不戦の思いつなぐ 各地で追悼行事

 8月1日は長岡空襲から75年の節目でした。

 19458月1日の夜1030分から2日午前0時10分にかけて、米軍B29爆撃機125機が襲来し、16万発以上の焼夷弾が投下されました。この深夜の空襲を受けて長岡市中心部の平潟神社や神明神社の防空壕柿川など1488命を落としました。
 こうした都市への無差別爆撃は明らかな戦争犯罪ですが、日米戦争の末期には数えきれないほど多くの「空襲」が各都市に対して繰り返されました。中でも東京空襲や長岡空襲は単なる都市の破壊だけでなく、市民を殺害することを意図して入念に計画されたものでした。

 1日、長岡市ではコロナ禍のために例年よりも規模は大幅に縮小したものの各地で追悼の行事が行われました。
 新潟日報が伝えました。
 併せて新潟日報の社説「長岡空襲75年 戦火の記憶語り継がねば」を紹介します。

「空襲」は戦争の持つ残虐性を端的に示すものです。それなのにそうした悲劇を全く知らない二世・三世の議員たちが、いままた軍備を拡張し、敵基地先制攻撃能力の保有をも目指すという時代逆行に奔ろうとしているのは何とも浅ましいことです。社説が「結び」で述べているように、「なぜ戦争が起き、多数の命が奪われたのか。過ちを繰り返さないためにも、歴史をきちんと見つめ直」すべきです
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長岡空襲75年 不戦の思いつなぐ 規模縮小し各地で追悼行事
新潟日報 2020/08/01
 長岡空襲から75年の節目となった1日、甚大な被害を受けた新潟県長岡市中心部で追悼行事が行われた。新型コロナウイルス感染拡大防止のため、参加者を絞り規模を縮小しての開催になったが、「もう二度と戦争がないように」との思いはしっかりつないだ。

 アオーレ長岡では、市主催の平和祈念式典が開かれた参加者は約200人と昨年の6分の1に減らし、席の間隔も1メートル以上空けた。空襲で父と姉を亡くした金子登美さん(86)は炎から布団をかぶって逃げた体験を壇上で伝え、「戦争がない、普段の日常が何とありがたいものか毎日思う」と訴えた。

 参加者を代表して献花した市連合遺族会の金井勲会長(80)は「戦争のない恒久平和の世の中になってほしいと、改めて願った」と話した。
 空襲当時、境内の防空壕(ごう)に多くの人が避難して亡くなった平潟神社では、慰霊祭の会場を拝殿に移し、参列者を約20人に限定して行った。参拝に訪れた市民は、隣接する慰霊塔に手を合わせた。
 一緒に逃げた兄を失った長岡市大島新町3の早川早苗さん(82)は「雪合戦をして遊んだことを思い出した。弟思いの良い兄貴だった」としのんだ。

 平和の森公園では、市内の小中学生約110人が、犠牲となった子どもや教員を追悼する集いに参加した。南中2年の女子生徒(13)は「空襲の記憶を引き継ぐことが大事。たくさん学び、次世代に伝えていきたい」と話した。
 夜には市中心部を流れる柿川で恒例の灯籠流しが行われた。参加者は募らず、主催する長岡青年会議所の関係者が犠牲者の数と同じ1488個の灯籠を見送り、冥福を祈った


社説 長岡空襲75年 戦火の記憶語り継がねば
新潟日報 2020/08/01
 きょう1日は、長岡空襲から75年の節目だ。ウイルス禍により花火大会の開催は見送られたが、毎年花火に込めてきた慰霊と追悼の思いを胸に、悲劇の記憶を伝え、平和の大切さを改めて語り継ぐ日としたい。
 1945年8月1日午後10時30分から2日午前0時10分にかけて、米軍のB29爆撃機125機が襲来し、16万発以上の焼夷(しょうい)弾が投下された
 市街地の8割が焼き尽くされ市中心部の平潟神社や神明神社の防空壕(ごう)、柿川などで1500人近い人々が命を落とした
 降り注ぐ焼夷弾で火柱が立ち、街は灼熱(しゃくねつ)に包まれた。家屋は焼け崩れ、逃げまどう人たちの行く手をふさいだ。街中には黒焦げの遺体が山のように積み重なった。

 当時を語れる人たちの多くは80歳を過ぎている。あの夏に何が起きたのか、しっかりと耳を傾けて心に留め、反戦と平和の大切さを未来に伝えていかねばならない。
 市民は例年8月2、3の両日に打ち上げられる長岡まつりの花火を見るたびに、空襲を胸に刻んできた。犠牲者を悼み、痛ましい記憶を戦争を知らない世代にも伝承する貴重な機会だ
 しかし今年は新型コロナウイルスの影響で戦後初めて、花火大会が中止された。
 ウイルス禍がなく、この夏に予定通り東京五輪が開催され、花火大会が行われていれば、平和へのメッセージは、訪日客を通じて世界にも発信されたことだろう。
 長岡花火は空襲犠牲者への追悼とともにある。その原点を改めて思い起こしたい。

 今夜は例年と同様、爆撃が始まった午後10時半に、慰霊と平和の花火「白菊」3発が打ち上げられる。アオーレ長岡では1~3日に献花を受け付け、犠牲者の遺影を展示する。
 2、3日の夜は花火大会に代わって尺玉が4発ずつ打ち上げられる。ウイルス対策で打ち上げ場所は公表しないが、空襲犠牲者への慰霊と平和、ウイルスによる犠牲者への追悼と早期収束を願う。

 4月に他界した映画監督、大林宣彦さんへの追悼の思いも込めるという。
 大林さんは、映画「この空の花-長岡花火物語」を通して、空襲を語り継ぐ長岡の人たちの思いを広く伝えた。
 太平洋戦争を経験し「軍国少年」として敗戦を迎えた大林さんは、映画で戦争を描いても誰も見向きもしないと長年封印していたが、長岡花火と出合ったことで考えが変わったという
 長岡は、真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官、山本五十六の出身地でもある。
 そのことを踏まえ、大林さんは「空襲の被害を受けながら、一方で反省や痛みを含んだ教育もしている。長岡は勇気を持って加害も伝えてきたことに大きな意味がある」と語っていた。

 なぜ戦争が起き、多数の命が奪われたのか。過ちを繰り返さないためにも、歴史をきちんと見つめ直したい