2020年8月17日月曜日

高畑監督が「『火垂るの墓』では戦争を止められない と言い続けた理由

 18年4月に亡くなった高畑勲映画監督の代表作である『火垂るの墓』は、なんの罪もない幼い兄妹・清太と節子が戦争に巻きこまれ、死に追いやられることへのやり場のない怒りと悲しみが人々の胸を打つ名作でした。それには同監督自身のリアルな戦争体験と戦争への思いが強く反映されていました。
 しかし高畑氏はその後「『火垂るの墓』では戦争を止められない」と発言するようになりました。
「攻め込まれてひどい目に遭った経験をいくら伝えても、これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか。なぜか。為政者が次なる戦争を始める時は、『そういう目に遭わないために戦争をするのだ』と言うに決まっているからです。
 日本人にはいわゆる『空気を読み』、世間の大勢に逆らわずその流れに身を任せていくという『ズルズル体質』があるので、一旦国が戦争に向かい始めたら、『もう勝ってもらうしかないじゃないか!』となってしまう(要旨)」と語っています。

 そしてその流れを防ぐものは「やはり『理性』であり、戦争がどうやって起こっていくのかについて学ぶことが、結局、それを止めるための大きな力になる」と述べています。

 実は、高畑監督は『火垂るの墓』の次に、「しかた しん」さん原作の『国境』をもとにして、「日本による中国への侵略戦争、加害責任を問う」企画を進めていたのですが、天安門事件の影響で企画が流れ“まぼろしの作品”となってしまいました。
 もしも実現していれば、氏が言う「『火垂るの墓』では戦争を・・・」を補完するものとなった筈です。

 LITERAが「日本の加害責任を検証するアンコール特集 その5」で、「高畑勲監督が『火垂るの墓』では戦争を止められないと発言し続けた理由! ~ 」を取り上げましたので紹介します。
註 (文中に出てくる)アクティビスト  政治的・社会的活動家
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日本の加害責任を検証するアンコール特集 その5
高畑勲監督が「『火垂るの墓』では戦争を止められない」と発言し続けた理由!
 日本のズルズル体質に強い危機感
LITERA 2020.08.15
 75年の節目を迎えた今年の終戦記念日、リテラ が日本の加害責任を改めて問う企画をお届けしているが、締めの第5弾で紹介したいのは、故・高畑勲監督の発言だ。今回本サイトが日本の加害を振り返っているのは、歴史修正主義の跋扈によって、大日本帝国の戦争犯罪がなかったことにされ、メディアの戦争回顧企画も日本人兵士が国のために命を散らした悲劇や日本人が辛苦に耐えた苦労話を美談化したようなものばかりが目立つようになっているからだ。
 高畑監督といえば、代表作『火垂るの墓』は戦争の悲惨さを描いた反戦映画の名作として国内外で高い評価を得ている。かつては、夏になれば毎年のように『火垂るの墓』がテレビで放送されていた。

 高畑監督自身、ジブリの盟友・宮崎駿監督とともに、反戦・護憲の立場を貫き、とくに晩年は、安倍政権下で“戦争のできる国”づくりがどんどん進む現状を憂い、積極的に発言し行動してきた
『火垂るの墓』があれだけ人々の感情を揺さぶり、高い評価を得たのも、高畑監督のリアルな戦争体験と戦争への思いが強く反映されていたからだ。
 ところが、当の高畑監督は近年、「『火垂るの墓』では戦争を止められない」と発言するようになっていた
 実際、高畑監督は、『火垂るの墓』のあと、日本の「侵略戦争」と「加害責任」を問う作品に取り組もうとしていたと明かしている(日の目を見ることのなくなった“まぼろしの高畑映画”については、既報【https://lite-ra.com/2018/04/post-3949.html】を参照いただきたい)。
 それにしても、高畑監督はなぜ「『火垂るの墓』では戦争を止められない」と考えていたのか。高畑監督が亡くなった2018年4月、本サイトではその発言を振り返る記事を掲載した。
 その深い洞察は、私たちが戦争に向き合うときに、なぜその被害だけでなく加害責任に向き合わなければいけないのか示唆してくれるものだ。75年目の終戦記念日のきょう、以下に再録するのでぜひ読んで、本当の意味で戦争の記憶を受け継ぐとはどういうことなのか、あらためて考えてもらいたい。 (編集部)
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高畑勲監督が最後に遺した無念の言葉「自由で公平で平和な国で死にたい」
『火垂るの墓』『平成狸合戦ぽんぽこ』『かぐや姫の物語』など、多くの作品を手がけた高畑勲監督が、5日、東京都内の病院で死去していたことがわかった。82歳だった。
 スタジオジブリのプロデューサーである鈴木敏夫は「やりたい事がいっぱいある人だったので、さぞかし無念だと思います」とのコメントを発表していたが、その無念のなかには、いま、この国に進行している事態を止められなかったという思いも含まれていたのではないだろうか。
 そのことをあらためて強く感じたのが、高畑監督の死去が報道されたあと、長い親交のあった映像研究家の叶精二氏が、ツイッター上で公開した年賀状だった。
 叶氏は〈昨年の元旦に高畑勲監督から頂いた年賀状です。20年来、毎年簡潔かつ独創的な賀状を頂くのが楽しみでした。これが最後の一枚。高畑監督のお叱りを受ける覚悟で、ご本人の一字一句をファンのみなさまと共有したいと存じます〉とのコメントとともに、2017年の正月に高畑監督から送られてきた年賀状を公開。そこにはこのような文章が書き添えられていた。

〈皆さまがお健やかに
お暮らしなされますようお祈りします
公平で、自由で、仲良く
平穏な生活ができる国
海外の戦争に介入せず
国のどこにも原発と外国の部隊がいない
賢明強靭な外交で平和を維持する国
サウイフ国デ ワタシハ死ニタイ です〉

 しかし、現実の日本はいま、安倍政権によってまったく逆の状況が進行している。格差が激化し、国民の権利や自由が侵害され、原発がどんどん再稼動し、米軍基地は沖縄の人たちの生活を危険にさらし続け、海外への戦争介入や軍備増強の裏で、外交は弱体化の一途をたどっている。高畑監督の無念はいかばかりだろうか。

高畑監を突き動かしていた戦争体験 『火垂るの墓』だけではない、アクティビストとしての活動
 高畑監督は“戦争のできる国”づくりをなんとか止めようと、積極的に発言し、行動を起こしていた。
 2014年には特定秘密保護法に反対するデモに参加。その後もデモへの参加は継続しながら、15年の安保法制の際には講演会などでメッセージを発信し、また、沖縄基地問題にも精力的に関わっている。
 16年には、実際に辺野古と高江に足を運んだほか、警視庁機動隊員の派遣中止を東京都公安委員会に勧告するよう求める住民監査請求に請求人のひとりとして参加。その年の年末には、高江ヘリパッド建設中止を求めるアメリカ大統領宛の緊急公開書簡の賛同者にも名を連ねた。
 高畑監督をつき動かしていたのはもちろん、自らの戦争体験を通じた、戦争への恐怖だろう。1935年生まれの高畑監督は先の戦争で、その恐ろしさを嫌というほど体験している。小学校4年生のときには空襲を受けた。空襲の夜、焼夷弾が降り注ぐなか、高畑監督は姉と2人、裸足で逃げたのだ。爆弾の破片が身体に突き刺さり失神した姉を必死で揺り起こしたりもしたという。一夜明け、自宅のほうに戻ると、遺体だらけだったという体験も語っている。
 代表作である『火垂るの墓』があれだけ人々の感情を揺さぶり、高い評価を得たのも、そんな高畑監督のリアルな戦争体験と戦争への思いが強く反映されていたからだろう。
 だが、その高畑監督は近年、「『火垂るの墓』では戦争を止められない」と発言するようになっていた。
『火垂るの墓』を観たときに多くの人が抱くのは、なんの罪もない幼い兄妹・清太と節子が戦争に巻きこまれ、死に追いやられることへのやり場のない怒りと悲しみだ。そして、やさしいはずの親戚さえ手を差し伸べなくなるという、戦争のもうひとつの恐ろしさを知る。死にたくない、殺されたくない、あんなひもじい思いは絶対にしたくない──そういう気持ちが生まれる『火垂るの墓』は反戦映画だと多くの人が認識しているし、実際、学校などでも「戦争という過ちを犯さないために」という理由で『火垂るの墓』が上映されることは多い。

「『火垂るの墓』では戦争は止められない」高畑監督が加害責任に向き合うために進めた幻の映画作品
 しかし、高畑監督は、もっとシビアに現実を見つめていた。神奈川新聞(15年1月1日付)のインタビューで、高畑監督はこう語っている。
「『火垂るの墓』は反戦映画と評されますが、反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものであるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないか」

繰り返したくないという切実な思いを利用し、感情に訴えかけてくる」
 また、昨年4月、東京・ポレポレ東中野で行われた、映画監督・三上智恵氏とのトークイベントで同様に、こう語っていた。
「『火垂るの墓』のようなものが戦争を食い止めることはできないだろう。それは、ずっと思っています。戦争というのはどんな形で始まるのか。情に訴えて涙を流させれば、何かの役にたつか。感情というのはすぐに、あっと言うまに変わってしまう危険性のあるもの。心とか情というのは、人間にとってものすごく大事なものではあるけれども、しかし、平気で変わってしまう。何が支えてくれるかというと、やはり『理性』だと思うんです。戦争がどうやって起こっていくのかについて学ぶことが、結局、それを止めるための大きな力になる
 実は、高畑監督が『火垂るの墓』の次に撮ろうとしていた“まぼろしの作品”については、あまり知られていない。監督作としての次作は1991年の『おもひでぽろぽろ』になるが、実はその間、高畑監督は別の企画を進めていた。
 しかし、ある理由によりお蔵入りになったという。「国公労新聞」2004年1月1・11日合併号のインタビューで監督自身がこう語っている。
「(『火垂るの墓』は)戦争の悲惨さを体験したものとして、平和の大切さを訴える作品をつくることができたことはよかったのですが、一方で、日本のしかけた戦争が末期になってどんなに悲惨だったかだけを言っていてもいけないと思っています。
 じつは『おもひでぽろぽろ』をつくる前に、しかたしんさん原作の『国境』をもとにして、日本による中国への侵略戦争、加害責任を問う企画を進めていたのです。残念ながら、天安門事件の影響で企画が流れたのですが、日本が他国に対してやってきたことをきちんと見つめなければ世界の人々と本当に手をつなぐことはできないと思っています」
 そう、最終的には映画化はかなわなかったが、高畑監督が『火垂るの墓』の次に取り組もうとしていたテーマは、日本の「侵略戦争」と「加害責任」を問うことだったのだ。

「空気を読むズルズル体質の日本は、国が戦争に向かい始めたら『勝つしかない』となる」
 しかし、高畑監督が、感情による戦争への忌避感が反戦につながらないと考えた理由はもうひとつある。それはおそらく、この国がもつどうしようもない体質に強い危機感を抱いていたからだ。勝手に空気を読み、世間の動きには逆らわず、その流れに身を任せていく。高畑監督はそれを「ズルズル体質」と呼んで警鐘を鳴らしていた。15年7月、東京都武蔵野市にて行われた講演会で高畑監督はこのように話している。
「政府が戦争のできる国にしようというときに“ズルズル体質”があったら、ズルズルといっちゃう。戦争のできる国になったとたんに、戦争をしないでいいのに、つい、しちゃったりするんです」
「日本は島国で、みんな仲良くやっていきたい。『空気を読み』ながら。そういう人間たちはですね、国が戦争に向かい始めたら、『もう勝ってもらうしかないじゃないか!』となるんです。わかりますか? 負けちゃったら大変ですよ。敗戦国としてひどい目にあう。だから『前は勝てっこないなんて言っていたけれど、もう勝ってもらうしかない』となるんです」
 また、前掲神奈川新聞のインタビューでは、こう語っていた。
「『戦争をしたとしても、あのような失敗はしない。われわれはもっと賢くやる。70年前とは時代が違う』とも言うでしょう。本当でしょうか。私たちは戦争中の人と比べて進歩したでしょうか。3・11で安全神話が崩れた後の原発をめぐる為政者の対応をみても、そうは思えません。成り行きでずるずるいくだけで、人々が仕方がないと諦めるところへいつの間にかもっていく。あの戦争の負け方と同じです」
 そして、高畑監督はだからこそ、「ズルズル体質」のストッパーとなる存在、つまり憲法9条にこだわっていた。高畑監督は、日本国憲法を勝手な解釈で骨抜きにし、さらには、その意義を根底から覆そうと企む安倍政権の動きに対して、このように語っていた。
「日本がずっとやってきた“ズルズル体質”や、責任を取らせない、責任が明確にならないままやっていくような体質が、そのまま続いていくに決まっている。そうしたら、歯止めがかからないのです。だから絶対的な歯止めが必要。それが、9条です」(前掲した武蔵野市の講演会)
「『普通の国』なんかになる必要はない。ユニークな国であり続けるべきです。 戦争ができる国になったら、必ず戦争をする国になってしまう。閣議決定で集団的自衛権の行使を認めることによって9条は突如、突破された。私たちはかつてない驚くべき危機に直面しているのではないでしょうか。あの戦争を知っている人なら分かる。戦争が始まる前、つまり、いまが大事です。始めてしまえば、私たちは流されてしまう。だから小さな歯止めではなく、絶対的な歯止めが必要なのです。それが9条だった」(前掲・神奈川新聞インタビュー)

 高畑監督の危機感と、護憲の姿勢は、けっして理想論ではなく、シビアでリアルな視点から出てきたものだ。だからこそ、高畑監督は精力的な作品づくりの一方で、アクティビストとしての活動を始めたのだろう。

森友、日報隠蔽…高畑監督「これで安倍政権が崩れないのは本当に信じられない」
しかし、高畑監督がそれでも吐露したのは、圧倒的な「無力感」だった。前述した昨年4月の映画監督・三上智恵氏とのトークイベントでこのように語っている。
「なんとかしなきゃと言いながら、無力感が強いですね。安倍政権には(自衛隊南スーダン派遣の)日誌のことも、森友学園も、すごい不祥事が続いていて、でも、なんでそんなことになっているのかを考えたら、えらいことでしょう? 『政権を維持するため』ですよね、簡単に言えば。忖度であれ、なんであれ、どういうメカニズムかは知りません。もちろん、それは改善する必要があるんでしょうが、しかしどっちにしても、それを支えようという力があれだけ働いているのが露骨にわかるにもかかわらず、これで崩れないというのは、もうちょっと考えられない。本当に信じられない
 わたしたちは高畑監督が素晴らしいアニメーション作品を残してくれたことにあらためて感謝するとともに、この無念の言葉をもう一度、噛みしめる必要がある。 (編集部)