2020年8月11日火曜日

「感染防止と経済活動の両立」の欺瞞 ~ (世に倦む日々)

 世上流布されている「ウィズコロナ」は、本来「感染防止と経済活動の両立」を意味しているものの、その実態は「コロナ感染症の流行を放置し必要な政府の対策を行わず、経済を回すことを最優先にするということに尽きると、「世に倦む日々」氏は述べています。
「感染防止と経済活動の両立」という標語が、実際には、感染防止対策を抑制して経済活動を一方的に推進する選択を正当化する言葉になっている」という意味です。
 
 このところの安倍政権の姿勢を見るとまさにその通りで、新型コロナ感染者累計は10日時点で49,749人で、緊急事態宣言を解除した5月25日時点の3倍に達しました。
 中でも「Go To」の被害が顕著な沖縄の惨状は目を覆うばかりです。
 それでも「絶対に緊急事態宣言を出さない」、つまり「今回は補償も休業要請もしない。経済を回すことが優先で、経済活動にマイナスになることはやらない」、というのが政府意思で、それを欺瞞する言葉が「ウィズコロナ」というわけです。
 ではそのためになにか「感染防止対策」をやってきたのかと言えば全く「ノー」です。世界で標準的に行われているPCR検査拡充が日本では行われていません。

 何の対策もないまま第2波を迎え、「感染拡大を放置したまま経済は回す」というのは、世界でも極めて少数の国が採っている方針です。コロナ対策劣等国の日本は遂にその仲間入りをしたわけです。
 記事中に出てきますが法大総長の田中優子氏は「経済優先ではなく資本優先、企業の儲け優先」と呼ぶべきだと語ったということです。要するにそのためには感染が拡大しても構わないという姿勢だという訳です。

 ブログ「世に倦む日々」の記事「「感染防止と経済活動の両立」の欺瞞 - 集団免疫と新自由主義のレッセフェール」を紹介します。 (レッセフェール  自由放任主義)
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「感染防止と経済活動の両立」の欺瞞 
- 集団免疫と新自由主義のレッセフェール
世に倦む日々 2020-08-10
前回、「ウィズコロナ」の言説を批判した。よく考えてみると、「ウィズコロナ」の言説と態度は、政府が唱えている「感染防止と経済活動の両立」の至上命題とセットになっていることが分かる。どちらもコロナの政策を導き出す上での前提的な認識になっていて、今の政府の政策は、この二つの言説あるいは命題によって正当なものとして受け止められる構図になっている。「ウィズコロナ」と「感染防止と経済活動の両立」のキーワードは、現在の政府のコロナ政策を正当化する概念装置である、と政治学的に整理できるだろう。イデオロギー暴露の視角から二つの言説・命題を睨み見たとき、要するにその意図なり目的は、コロナ感染症の流行を放置し、必要な政府の対策を行わず、経済を回すことを最優先にするということに尽きる。その方針を国民が納得し肯定する装置として、サボタージュを合理化する方便として、二つのキーワードが駆使され、一般に定着して効果を発揮している現状にある。

「感染防止と経済活動の両立」の命題のイデオロギー性なり虚偽性については、尾身茂の会見を見ても、釜萢敏のコメントを聞いても、ときどき怪しい正体を現す瞬間があることを観察できる。8月3日のモーニングショーでの釜萢敏と玉川徹のディベートの中で、釜萢敏の本音が吐露され、今の政府の方針が「感染防止と経済活動の両立」を絶対命題としたものだから仕方ないだろう、玉川徹と自分たち(分科会)とは立場と認識が違うのだと明言、玉川徹が求めるPCR検査の拡充(=世田谷区の「社会的検査」)を拒否する場面が垣間見られた。今は何より経済を回すことが最優先なのだという意図がよく露出したし、それだけでなく、さらにそれを超えて、政府=分科会の底意が、スウェーデン的な集団免疫の路線にあるのではないかということが疑われる。そうでなければ、第2波の感染拡大に同期させたGoToトラベルの推進など、とても合理的な理解をすることが不可能な政策だ。

第2波についての政府の対策姿勢の要諦は、とにかく何が何でも緊急事態宣言を再出しないようにする、ということに尽きる。都度都度に尾身茂を出して使い捨ての「指標」をでっち上げ、マスコミに流させて国民を誑(たぶら)かし、その場凌ぎでやり過ごして時間稼ぎするというのが政府の「コロナ対策」の実相で、春の第1波も基本的にはそうだった。基本的な姿勢として集団免疫がある。尾身茂の話はコロコロ変わる。頑として一貫しているのは、絶対に夏は緊急事態宣言を出さないぞという政府意思であり、安倍晋三の不動の思惑だ。春のときは、西浦誠が出て来て恐怖の感染爆発予想を言い、その空気の上で小池百合子が外出制限と行動自粛を指導し、それに引っ張られて、定額給付金や持続化給付金の支給を伴うところの、7割接触削減をめざす政府緊急事態宣言の発布となった。補償とセットの休業要請が実現した。今回は補償も休業要請もしない。経済を回すことが優先で、経済活動にマイナスになることはやらない

世界の中で日本のコロナ対策は独特で、失敗している米国型とも違うし、成功している中国型とも違う。米国のコロナ対策は非常に奇妙で、トランプはボルソナロ的な集団免疫の経済活動一直線であり、他方、ファウチとバークスは韓国モデルのPCR大量検査を懸命にキャリーし、二つの矛盾した対策が交錯し併存している。前者の結果がフロリダやテキサスで反映され、後者の結果がNYで成功例となっている。前者の、トランプやボルソナロが採択し推進している放置主義の政策路線は、やはり経済優先の新自由主義の方向性だと性格規定することができるだろう。経済優先という表現は実は語弊があり、誤謬であり、田中優子がサンデーモーニングで喝破していたように正しくない。経済優先ではなく資本優先、企業の儲け優先が正しく、このコロナ禍の中で言われている経済優先という語法には本質を逸脱した虚偽がある。人を騙す言葉の詐術がある。米国のコロナ対策は、新自由主義的な政策と社会主義的な政策の二つが同居し混在している。

日本の場合、残念ながら、ファウチ的韓国的な方向性が政策にならず、唯一、世田谷区で試験的挑戦が始まるという状況で止まっている。世界で標準的に施行されているPCR検査が、日本では行われていない。大阪府などはブラジルそのものだ。にもかかわらず、日本で感染者数や重症者数が危機的な急増とならず、横這い・漸増の水準で抑えられているのはなぜだろうか。それはやはり、GoToが始まる前週、7月中旬からの小池百合子のプレゼンテーションが浸透していて、菅義偉から疎外のいじめを受けつつ、都知事が独自にアラームを発信した影響だろうと私は分析する。東京の住民、特に消費意欲が旺盛な首都圏の高齢者層のモビリティ(出歩き)が抑えられた結果、第2波の感染者数増加は危惧したより緩やかなカーブとなっている。小池百合子の講話指導が国民の行動変容を促しているからだ。そのことは、報道1930に出演した児玉龍彦も言及していた。コロナ禍の日本社会で、小池百合子の会見は国民的な注目の焦点になっていて、そこで発される言葉が人を動かす機軸になっている。

日本では、「感染防止と経済活動の両立」という標語が、実際には、感染防止対策を抑制して経済活動を一方的に推進する選択を正当化する言葉になっている。両立でも何でもない。米国のような矛盾的併存混在でもない。PCR検査を拡充せよという要求を否定するための工作に用いられ、緊急事態宣言を出さないための武器として使われている。実際、日本政府は第2波では何もやっていない。地方自治体に任せきりであり、丸投げの行政の内容は、単に知事の訓話指導であり、外出や会食や旅行の自粛要請だけだ。安倍晋三と政府の思惑は、経済活動が回っていれば感染者が増加しても別に構わず、対策の責任は都道府県の知事にあるとするものだ。そうした過程を通じ重ねて、集団免疫を徐々に獲得すればいいという邪悪で冷酷な底意が隠されている。だが、その路線なり展望が破綻していることは、米国の第二四半期GDPの数字が証明していると言えるだろう。米国であれほど多くPCR検査をしながら、NYを別にして、なぜ世界一の感染者を出し続けるのか、その真相はよく分からない。

隔離をきちんとしてないからだという説もあるし、PCR検査を全くやらないのに感染者数が少ない日本と対比させて、そこにファクターXの存在を見る者もいる。が、確実に言えることは、NY並みの検査と制限をかけないことには米国全土の感染は収まらず、第三四半期にV字回復など到底望めないということだろう。制限をかければ経済活動は停滞する。制限を解けば感染が拡大する。米国はジレンマの中にあり、今の政権を見るかぎり、ずっと失敗と経済縮小が続く予感を否めない。ジレンマはEUも日本も同じで、そのことが「感染防止と経済活動の両立」を尤もらしい真理だと人々に頷かせている。だが、世界をよく見ると例外があるのであって、「感染防止と経済活動の両立」を最も理想的に実現しているのは、第二四半期のGDP年率換算で11.5%のプラスを達成した中国だろう。前年同期比で3.2%増。見事に内需を伸ばし、V字回復を実現して7月以降の年後半の成長に弾みをつけている。PCR大量検査をコロナ対策の鍵としている点は、米国も中国も同じだ。韓国も同じだ。だが、やはり徹底の度合いが違う。

何かが違うのではないかと思いつつネットを眺めていると、「米厚生省は7日、フロリダ州、テキサス州、ルイジアナ州の3都市で無料の新型コロナウイルス検査を実施すると発表した」という7月8日のロイターの記事を見つけた。ようやく7月に入って、感染者の多い共和党知事州の3州でPCR検査が無料になっている。全米の州がクオモのNY州と同じになっていたわけではなかった。7月6日の記事では、フェニックスでPCR検査を受けるために市民が8時間も待たなければならなかったと報告があり、決して米国の隅々がNYと同じではなかった実情が垣間見える。あっと言う間に市民1100万人を徹底検査して、市内からウィルスを一掃してしまう中国の体制との差がある。結局、米国も日本と同じで、中国・韓国式の「社会的検査」を阻む素地があり、イリノイ州で「ホワイト・トラッシュ・バッシュ」のどんちゃん騒ぎをやったり、サウスダコタ州でハーレーダビッドソンの愛好家のイベントを開催したり、コロナの脅威や対策を無視し過小評価する「経済を回す」営みが行われてるのだ。

この動きは、大阪府市の知事市長が行っている動きと思想的に通底したものだろう。その思想は新自由主義のレッセフェールの思想であり、資本の利殖と資本の自由を最優先する考え方である。「経済を回そう」という動機と論理から野蛮に噴出するものだ。